イオン・ソソナモン・セソナモン(照れ隠し)

 ノボルが指をくわえて小屋を出るとき、おっかさんは背中を向けていました。
「オレ、野原へちょっと行ってこよう」とノボルがこわごわ振り返って言いましたら、おっかさんはそのままちょっと黙っていましたので、ノボルは土間の方まで来てしまいました。
「待ちなさいノボル、少しお母さんの話を聞いてきなさいよ」とそこでお母さんは呼びかけました。ノボルはぼろぼろの虫取り網を引っつかんで、先っぽでとんとん床に打ち付けながら、おっかさんの姿は見えませんけれどもそっちの方に振り向きました。「あなた、野原に一人で行くのもいいけれど、あの黄色の糸ををぎゅっと結んだようなタンポポの、沢山咲いているのをつんではいけないよ。つんだのを指のまたに挟んだりして、それをしたままおもしろがって、後ろにぐるんとでんぐり返しをしたらいけない。ぐるりと空がひっくり返ったら、ノボルお前の目玉もひっくり返って、今まで見ないですましてるものを見ることになってしまう。お前の兄さんはそれでひどい目にあったのだから」おっかさんはさっきまで下を向いて、色々な布切れを集めてちくちくノボルのズボンかなにかを縫っておりましたから、きっと今もしているのです。
「そんなことオレしない」ノボルは虫取り網の輪っかになった針金をくにくに形を変えながら聞いていましたが、そうつぶやいて出て行くと、緑の暗い雑木林をかすめながら、乾いた小道を野原へ歩いていきました。
 野原の見える丘の方から下りていくと、お日様もちょうど上りきろうというところで、あたり一面タンポポばかり、花をいっぱいに開かせて咲いて、その上を風が横向きに流れていくのでまったく快く揺れていました。その上を、蝶がひらひらいくつも飛んでいたので、ノボルはよしよしと思いました。
「ちょうちょなんかこんならいくらでもいる。タンポポだって咲いている。おっかさんの言ってたようにオレさっそく摘んでってみてやれ」ノボルは虫取り網を放り出して、タンポポの足元にあるのを一つ花のところで折るように摘んでみると、左の小指と薬指のまたに挟みました。するとなんだかちょっと刺されたようにこそばゆく、ノボルは何度もぐすぐすはさみ直しましたけれども、どうも気に入って、全部の場所にタンポポ挟んでみたくみたくてたまらなくなりました。だって後ろにでんぐり返し一つしなかったらいいんだろうと思って、つぎつぎ挟んでいきました。両の四つのまたにすっかり挟んで太い黄色い花の線ができたところを青の空にすかしてみると、肌のピンクにそれから黄色に空気が透けて、どうにもうっとりするような感じがするのでした。ノボルはおっかさんのことを思い出して、もうここまでにしようとあたりをきょろきょろ見回しましたら、丘と空の境目の緑がこんもり少しずつ盛り上がっていっているように見え、そこから下って誰もいないでタンポポばかりどっと咲いて、それが弾けてぱちぱち聞こえるようで何ともいえず気を引きました。あの黄色と青と緑がぐるりといっぺんにひっくり返ってまざるところを見たら本当にもうどんなに不思議に見えるだろうと思うとノボルはいてもたってもいられなくなりました。思わず、後ろを向いてみて、両の手を耳の横へ濃い青の空に向かって広げて途端に後ろへ転がってみたら、青と緑と黄色がぐらりと線になって天へ逆さに昇っていって、お天道様のまぶしさまで顔を射すのですから本当に色とりどりの火が燃えているようでした。が、ぐるっと回って体を起こしてみたら、もう明るい青の空はがらんとした穴のようなものに変わってしまって、野原もタンポポもどろどろ気味悪く縮こまってくるようでした。さあ大変と思って指のタンポポを離しましたが、もうその時はいけませんでした。空はますます火鉢の灰を飴で固めたように重苦しいようになって、それをじっと見ていたら、いつの間にか、丘の向こうの遠くに聳え立つような灰色の壁に変わっているのでした。どちらの方を見回しても、高い苦しい灰壁に囲まれて、真上を見上げると、そこには空がありましたが、むくむく曇っていてところどころ錆び付いたようにさえ見えるのでした。
 どうしようもなくノボルがうろうろしていると、丘の向こうから誰か近づいてくるのがふいに見えました。どうやら男の人で、顔をひどくゆがめてなんだか怒っているようでした。怖くなりながらも、ずいぶん来るのが遅いと思ってそのまま見ていると、すっかりその人の体が見えるようになりました。その人は、茶色のズボンの右足をひどく引きずって、それで怒っているのかわかりませんけれど、本当に鬼のような顔でノボルに向かってくるのでした。
「おっかさん、おっかさん。おっかさん」ノボルは反対の丘の方へと逃げながら一生懸命叫びました。
「いたいいたい」足にケガをしている男は辛そうにぎゅっと目を閉じたりしながら、足をずりずり我慢して寄ってきましたが、ノボルははあはあ息をしながら一生懸命駆けて行って、簡単に逃げることができました。
「ほんとうにいたい。医者に診てもらわなければ、これはほんとうにいたい」ケガの男は追いかけながら、何度もそう繰り返していました。ノボルはいっそう怖くなりましたので、壁伝いにどんどん逃げていきました。すると、今度は向こうから、何やらどんぶりを持った、黒い服を着ている男の人がやってくるのでした。どんぶりには何かなみなみ入っているようで、それがこぼれないように、腰を落としてえっちらおっちら、時々ノボルの方に目をやりながら近づいてくるのでした。どんぶりの男は何かしきりに言っていました。
「黒い服だからっていいことあるか。黒い服だからっていいことがあるか」
 ノボルはまた怖くなって、二人のいない方に向かって、ちらちら二人を振り返りながら走り出しました。どんぶりを持った男は、それに気付くや慌ててそっちへ駆け出そうとしましたが、するなり、黄色いスープが派手にこぼれました。
「あつい。とてもあつい」それでもどんぶりを持った男はノボルを追いかけようと、ぽたぽた黄色いおつゆを垂らしながら追ってきます。反対からはケガの男が、時々ケガのしてない方でけんけんしてみたりしながら、やっぱり止して、びっこをひきひき追ってくるのです。
「おっかさん、おっかさん」ノボルは叫びながら駆けました。そして、なんとなく上を見上げてみますと、そこには、とても立派な黒いクレーンの腕が壁の外から伸びていて、その先に、ノボルの体ほどある大きなキャメラをノボルに向けて、サングラスをかけた男の人が座っているのでした。
「おおい、おおい」ノボルはもしかしたら助けてもらえるかもしれないと思って声をかけましたが、その人は何かカメラの一つのとこばかり見ていて、全然気付かないようでした。
 すると突然、ノボルは後ろから両肩をつかまれて、そのまま前に押し倒されました。驚いて、何か重たくのしかかっているのをなんとか振り返って見ると、大きなカラスがノボルの上に乗っかって、首をくりくり回してこっちを見ているのでした。ノボルの肩にはカラスの爪が、今にも食い込みそうで、それはまるで突き破るのを我慢しているようにぐんぐん脈打っていました。もうノボルはあんまりにも怖く、小さくなって恐れ入っていました。
「小僧め、来い。俺のモグラの家に下男がいなくて困っているところだ。ご馳走してやるから来い」カラスが言ったかと思うと、ノボルは両肩をつかまれてぶらんと立ったらあっという間に舞い上がって、さっきまであんなに高いようだった壁を越えてしまうと、それからどんどん空の上を、家と反対の方へ、まるで一直線に走っていくのでした。遠ざかっていく壁はまたいつの間にか灰色の空になっていて、その先に、小さな人の影が五つ六つ動き、一人は両手を高く上げてまるで気違いのように叫びながら野原を駆け回っているのでした。
「おっかさん。もうさよなら」ノボルも高く叫びました。するとカラスはぎゅっとノボルの肩を強く握って、
「ほざくな小僧。すずめの子がびっくりしてるじゃないか」と言ったかと思うと、ぽっとあたりが白くなりました。
「ああおいらはもうすずめの子なんぞの機嫌を考えなければいけないようになったか」ノボルは本当に涙をこぼしました。
 そのときいきなりノボルはカラスの爪から草の上に投げつけられました。肩をひどく打ってノボルが起き上がって見ましたら、そこはもう見たことも無いようにお天気のくぐもった別の野原で、まるっきり海の中にいるようにちょっと先しか見渡せないのでした。見上げると白く明るく、ただ一ところお日様のある方だけちょっと黄色くぼんやり光っていました。
「おいモグラめ、いいものをやるぞ。出て来い」カラスは一つの穴に向かって叫びました。
ノボルは小さくなってしゃがんでいました。気が付いてみるとほんとうにノボルは小さな一匹の蛙になっていました。それは手の緑や、力をこめるとノドがぷくぷく膨らもうとするのでわかりました。
「ああなさけない。おっかさんのいうことを聞かないもんだからとうとうこんなことになってしまった」ノボルはべったり湿った息苦しい空気の中でぼろぼろ涙をこぼしました。カラスはこっちを振り向いて、黒いクチバシをかつかつふざけるように鳴らして言いました。
「モグラ、どうしたい」するとごほごほいやな咳をする音がしてそれから、
「知らないうちに調子が悪くなるんだ。俺は何もしていないのに、いつもいつもそうなんだ」ととても苦しそうな声がしました。
「そうか、そいつは気の毒だ。実はね、お前のとこに下男がいなかったもんだから今日一人見つけてきてやったんだ。蛙にしておいたがね。ぴしぴし遠慮なく使うがいい。おい、きさまこの穴に入っていけ」
 ノボルはこわくてもうぶるぶる震えながらその真っ暗な穴の中へ這いこんで行きましたら、ほんとうに情けないと思いながら這いこんで行きましたら、カラスは後ろから小石を落として追い込むようにしました。にわかにがらん、明るくなりました。そこは青色の灯りがパチパチ消えたり点ったりして、土がキレイにならされてありましたが、その上にそれはもうとても大きな恐ろしいモグラが鉢巻きをして寝ていました。
(こいつのつらはまるでとがった茶色の鼻ひとつっきりだ。こんなやつに使われるなんて、使われるなんてほんとうに怖い)ノボルはぶるぶるしながら入り口に止まっていました。するとモグラがううと一つうなりました。ノボルはどきっとして跳ね上がろうとしたくらいです。
「うう、お前かい、今度の下男は。俺はいま病気でね、どうも苦しくていけないんだ」[以下原稿余白]