こちらブックオフこち亀前

 午前十時、ここ町田の都内で一番でかいブックオフに「連休返上」と書かれた鉢巻をした、柔道着の男がやって来た。傍らには、明らかに弟子といった様子の小男がおり、鉢巻きに「師匠ならやれる」と書かれていてやっぱり弟子だった。男はブックオフに入店すると、まっすぐにコミックコーナーへと向かった。その足取りは力強く、ブックオフに入店する八割の人間がそうであるように、よし立ち読みするぞ、という気合がにじみ出ていた。人一倍にじみ出ている。だって、カバンも持たない柔道着の奴が何か買うはずない。立ち読みだ。師匠に続いて、弟子もビデオカメラを手に持って、ついていった。
 100円コミックコーナーのジャンプ棚の前まで来ると、師匠は弟子の方をチラリと見て、うなずいた。
「REC!」弟子は元気のいい声で叫び、録音ボタンを押して撮影を開始した。
 師匠は『こち亀』の1巻を手に取って一度カメラに表紙を見せると、立ち読みを始めた。なにを隠そう、彼は、ゴールデンウィークを使って「ブックオフでこち亀全巻読破」というギネス記録を達成しようとしているのだ。さっきの力強い足取りは、既にこち亀を立ち読みすることを決めていたからこそ、どうりで優柔不断なところが全然なかったのである。
 カメラに映るこち亀を見て、さすが師匠、今の絵と全然違うぜ、と弟子は思った。そして、長い歴史の始まりである「始末書の両さんの巻」を、師匠が早々に読み終えたらしいことに気付いた。
「おい」師匠は振り返って、弟子に話しかけた。
「はい」
「中川巡査、何話目で出てくると思う」
「一話目ですか」
 師匠は一瞬、みんなで無茶しながら遊んでいていつかケガ人出るなと思っていたら自分がケガをした時のような顔になったが、すぐに棚の方を向いてしまった。弟子は深く反省した。だって、一話目読み終わったぐらいのところで聞くから……いや、でも、オレが察して、二巻ぐらいじゃないですか、と言わなくちゃいけなかったんだ。だってそしたら師匠だって、一話だぜ、と言えるじゃないか。聞いて驚くなよ、って言えるじゃないか。すいませんと思いながら、弟子は師匠が真剣にこち亀を読んでいる表情をズームアップさせた。すると、
「最初の話で、両さんはノラネコに銃を乱射するんだぜ」と師匠がこち亀を読みながら言った。
「おもしろいっす」弟子は間髪いれずに言った。
「勤務中に競馬中継聞いてるんだぜ」
「おもしろいっす」
「また始末書だぜ」
「両さんらしいっす」
 普段は寡黙な師匠がこんなに喋るのは、さっきの中川の件があったからだ、と弟子は痛感した。ギネス挑戦中なのに、これで失敗したらオレのせいだ、と弟子は思った。オレが中川巡査が一話目に出てくることを当てたから。
 師匠はそのあとは喋らず、一巻を読み終わって早くも二巻を読み始めた。黙々と読んでいる。そうだ、ブックオフで立ち読みするのに喋る必要などないのだ。と思ったらしかし、師匠は喋った。
「クリスマス・イヴなのに、両さんは派出所で一人ぼっちなんだぜ」
「悲しいっす」
 師匠は二巻も読み終わり、そこからは一言も喋らず、三、四、五、六巻と続けざまに読み終えた。素晴らしいペースだ。まだ午前十一時半を少しまわったところ、少しブックオフはこんできたが、こち亀がずらりと並んだ棚のドまん前という、ベストこち亀スタンディングポジションに陣取った師匠には何の影響も無い。むしろブックオフがこめばこむほど、通路がぎゅうぎゅうになればなるほど、師匠のポジションは安定してくるのだ。まさにブックオフ特有の現象である。弟子もまた、師匠の背後のチャンピオン棚の前に陣取って、三脚を立ててビデオカメラをまわしていた。こちらはジャンプ棚に比べれば少し空いていたが、それでも少年チャンピオンは意外とギャグマンガが充実しているということを知っている者たちでにぎわっているし、そっちに持ってって『すごいよ!マサルさん』を読んでいる中学生もいた。
 そんな中、師匠は七巻を読もうと棚に手を伸ばしたが、ここで大問題が発生した。七巻が無いのである。弟子はすぐさま、カメラをそのままに、ちょっと高いほうのコーナーへと走った。南無三、あってくれよ。しかし、無かった。こち亀の七巻が無い。
「無いです、こち亀の七巻!」弟子が戻ってきて言ったその時、弟子は師匠の隣にいる奴が、昔の絵のこち亀を読んでいるのに気付いた。
 弟子は狭いスペースの中、凄い勢いではいつくばり、下からそれを見上げた。周りにいる誰も、注意どころか、振り向きもしなかった。ブックオフで立ち読みするとは、そういうことなのだ。本屋で立ち読みするのとは明らかに違う。読み始めたらもう、この場所はテコでも動かない、みんなそう思ってやっている。ブックオフで立ち読みする誰しも、両足を肩幅まで開いたらあとはマンガだけ読んでりゃいいのである。すいている場所を探しているうちに、気付いたら少女マンガコーナーで『バガボンド』を読んでいたなんてイヤだろ。遠慮する必要は無い。
 さて、弟子がはいつくばって見たのは、それは七巻だった。「ラジコン決戦!の巻」と書いてある。弟子はいらだった。この野郎、お前が読んでるから、師匠がこち亀の七巻を読めないじゃないか。こち亀の七巻をよこせ。
「よこせ!」弟子がこち亀の七巻をつかんだ。
 こち亀の七巻を読んでいた男はびっくりしたが、それでもこち亀の七巻を離さなかった。二人はこち亀の七巻を、破れない程度に引っ張り合った。破ったら買わなきゃいけないからだ。
「ぼ、僕が読んでるだろ!」男は言った。
「うるせえ、八巻でも読んでろ、こち亀の!」
「それだと順番がめちゃくちゃになるだろ」
こち亀なんて順番関係ねえよ、大体わかるよ、大丈夫だよ。よこせ! 師匠がギネス記録に挑戦中なんだよ!」
「そんなの僕に関係ないじゃないか! ブックオフのマンガはみんなのものだろ!」
「ちげえよ、ブックオフのもんに決まってんだろ!」
「立ち読みはブックオフが許してるんだ!」
「だから、立ち読みばっかしてねえで買えよ! ゴールデンウィークにセールやってんだろ、全品20%オフって。もともと安いのが、さらにオフってんだから、すげえお得だし、買えよ!」
「そんなの、買おうと立ち読みしようと、個人の自由じゃないか!」
「うるっせえよ。邪魔なんだよ、買おうとしてる人の邪魔なんだよ。大体、せっかくのゴールデンウィークにお前、ブックオフ来るしかやることねえのかよ! 連休にブックオフでこち亀なんか立ち読みして、お前、本当にそれでいいのかよ!」
 その時、弟子はハッと気がついた。師匠の方を見た。師匠は、こち亀のなぜか八十巻を持って、みんなの付き合いで来たくもないカラオケに来た時のような顔をしていた。