百万円

 今度ばかりは我慢なんねえ。わざとSサイズのTシャツを着て筋肉を強調する卑怯者ブラザーズめ、いつまで身を引いた俺を追い回すんだ。先月、お化け屋敷に入ったことがないのにお化け屋敷の夢をみたエイジは、テレビっ子として生きるしかない自分に気付き、殺し屋を辞めて平凡な人生を歩むことに決めたのである。言わば、右のルートは上級者向けだよ、と言われた山道を左に行ったのである。
「どうして俺をつけまわすんだ。庭島兄弟。俺はもう足を洗ったんだぞ」
 腕っ節の強そうなTシャツの男達――庭島兄弟――は、一瞬、顔を見合わせた。その表情は、どこかで見たことがある気がした。そうだ、あのすっとぼけた表情、時刻表トリックを決めた時の顔だ。おちょくっていやがる。
「今帰れば、許してやる。しかし、俺を傷つけようというのなら、降りかかった火の粉は、俺は払うよ。組の腰巾着ちゃんどもめ」
「エイジ、組はもう関係ないぜ。俺と兄貴は、ナンバーワンの、二人一組でナンバーワンの殺し屋になるために、お前を銃でバキュンバキュン、す・る!」弟の方が叫んだ。
 弟の方がTシャツの襟がダルダルに伸びているのですぐわかる。おさがりなのだ。しかしこれは二人の作戦でもあった。つまり、この前まで兄の方が着ていたTシャツを弟の方が着ることで、あれ?あのTシャツ……あいつが兄……? と敵を撹乱させ、お母さんも助かるという戦法なのだ。しかし問題は、この兄弟がまったく似ていないということである。
「バキュ…そんなことされたら……死んじゃうだろ! 俺はもう殺し屋じゃないんだから、全然関係――」
「ここに、百万円ある」突然、兄の方が札束をポケットから出した。
 エイジは百万円を見るのはなんせ初めてだったので、喋るのを止めて口を開け、そこに手をあてて主婦のように感心してしまった。帯がついているのだから、あれは間違いなく百万円だ。なぜなら、九十八万円に帯をつけても惨めになるだけだから。
「ふふふ。どうだ、この百万円の、感じ…………殺す!」
 兄弟はスピードスケートのスタートのようなバタバタした動きで、エイジから距離を取り、エイジの前後に散らばった。そして、銃を構えた。二対一丸出し、この状況では、明らかにエイジが不利だ。
 しかしエイジは落ち着いていた。アニメなら90%の確率で一人の方が勝つ、落ち着け。自分にそう言い聞かせた。いつも臨機応変なエイジでいたいと思っているエイジは、「はいっ、はいっ」と言いながら、体勢を低くして小さな半回転ジャンプを繰り返し、二人を交互に見た。庭島兄弟は動けない。こいつやべえ、ドッジボールでは味方にしたいタイプ。この勝負、三人のうち一人か二人、ランダムで死ぬ。
 エイジは、胸の内に秘めた落ち着きを、気付かれないように、こっそりと怒りにかえていく。たとえようのない怒りは、たとえようのないまま、普段の気さくなエイジを蝕んでいく。むかつくぜ。これでこいつらをぶん殴る理由は整った。俺はイライラしてロッカーを蹴る不良と同じ気持ちで、こいつらをぶん殴る、いや、半殺しにしちゃう。この場合、たぶん半殺しならセーフ。安心したエイジは、戦いの前はいつもそうするように、高ぶった感情はお値段据え置きのまま、体の力だけを抜いてゆく。パンダの子供をイメージして、パンダの子供をイメージして。そしてとうとう、心の中のパンダの子供が二匹ぐらい木から転がり落ちた時、エイジは見た目人ん家に泊まって二日目の夜のようにリラックスしながら内心めちゃめちゃ殺したい、めちゃめちゃ血が見たいよ、というあの日の姿を取り戻していた。
 そしてエイジは、最後の仕上げ、爆発的に動き出すための言葉を導き出すための素朴な疑問を、自分に問いかける。ダイドードリンコのドリンコってなんだろ。ダイド−ドリンコのドリンコってなんだろ。
「社長のアドリブ!」エイジは自分なりに出した答えを叫ぶと同時に、凄まじい勢いで、まず膝が悪い弟の方に飛びかかっていった。