日本史90℃(ドシー)

 授業開始から二十分、既に、教室に残るのは先生とノリオと福川君だけだった。教室の温度は90度まで上昇していたが、日本史の授業は依然として続けられていた。
 まさか土日明けに教室がサウナに改造されているなんて、常日頃から夢見がちなノリオでも、夢にも思わなかった。教室の床は、みんなの汗でびしょびしょとプールサイドのようになっていた。ノリオのシャツは体にはりつき、みんなの真似をして着てきたヴィヴィッドカラーのTシャツが透けた。叔父さんからもらったSEIKOの腕時計はチンチンになってつけていられなかった。黒板は熱気のせいでよく見えないが、空海、最澄、平安文化、とだけ大きく書いてあった。
最澄と空海は両方、名前がかっこいいな。君達の年だと空海の方が数倍かっこいいじゃんとか思うだろうけど、最澄も全然負けてない。いやむしろ最澄、むしろ最澄だ。君達も、大人になったら先生の言ってることがわかるよ」
 空也が一番かっこいいと思っていることはともかくとして、ノリオはもう先生の話をさっぱり聞いていなかった。頭がぼんやりしていた。こんなにぼんやりしたのは、小四の時にあんなにぼんやりして以来だ。
 このままではいけないと思ったノリオが気合を入れなおそうとして頭を上げたその時、福川君がとうとう席を立ち、教室の外へ出て行った。これで残るはノリオだけとなった。
「空海にまつわることわざ、弘法も筆の誤り、のかっこいいエピソードを話してあげよう。空海は、応天門の額を頼まれて書くことになったんだけど、『応』の字の点を一つ、書き忘れたんだね。うっかりしてた。うっかりしてさてここからが問題。どうしたと思う。空海どうしたと思う。はい茂原」
 必然的にノリオがさされたが、もうサウナが腰にきていたので、答えることができなかった。素っ裸にタオルだけというサウナを百パーセント楽しむ気の先生は、掌を肌にすべらせて汗をはじき飛ばしながら、大体の優しい先生があてた生徒が口ごもって答えられない時にするように、「うん」と言ってから、話し始めた。
「うん、空海は投げたんだ。思いっきり筆を、その書き忘れの点の場所に投げつけた。普通なら失敗するよね。そんな調子に乗ったパフォーマンス、普通なら失敗するけど、空海は成功した。ちゃんと『応』の字になった。みんな、ちゃんと『応』の字になるなんて思わなかったから、手が痛くなるまで拍手した。赤くなった手を見せ合ったりもした。どうだ、凄いだろ」
「そんなの、受験に……」
 テレビに出たことのない大家族の末っ子に生まれたノリオは抵抗した。先生は、ノリオが口ごたえを始めたのがわかったので、ノリオが言い終わる前に、焼けた石にペットボトルに入れた水をぶっかけた。ステーキが焼けるような音ともに、黒板の「日直」と書かれたところの下から白い熱気がふきあがった。
 しかし、家では父親に続いてひょうきん者であるとされているノリオは、それは全然関係無いが、負けなかった。力を振り絞り、顔を上げて叫んだ。
「出ません!」
 先生は、腰に巻いたタオルを外し、くるりと後ろを向くと、股の間から尻に向かってタオルを打ちつけた。何度も何度も打ちつけた。同じリズムで股の間から白いタオルが飛び出してくるのが、ぼんやりした頭も手伝って、ノリオには夢の景色のように見えた。先生の顔は、その間ずっとこっちを向いていた。ノリオはおじさんがよくやるとされている動作を目の当たりにして、くじけそうになった。
 教室の外では、廊下に設置された水風呂に肩までつかったみんなが中の様子を見ていた。何気なく外を見たノリオの目に、その完全にくつろいだ姿が飛び込んできた。みんなは、ノリオに見られていると気付くと、一斉に顔を洗った。
 ああ、わかったぞ。ノリオは朦朧とする頭で考えた。もっと早く気付くべきだった。教室に着いた時に、みんなが春なのに水着を着ている時点で気付くべきだったんだ。おかしいと思った。おそらく、事前に連絡網がいっているんだ。明日はサウナです、という連絡が僕以外には行き届いているんだ。明日はサウナなのでよろしくお願いします。
 すると、サッカー部の林本がこっちに向かって何か言っているのにノリオは気付いた。繰り返し繰り返し、何か言っている。サウナ室の厚い扉と壁にさえぎられて、声は聞き取れない。ノリオはなんとかその台詞を判別しようと試みたが、途中で、林本のもとにコーヒー牛乳がまわされてきて、林本はそっちに夢中になってしまった。ほっぺに当てたりなんかして楽しんでいる。
 先生はまだ喋り続けているが、もう何も聞こえなかった。ノリオも外に出たかったが、水風呂はもうクラスメイトでいっぱいだ。凄く混んでいる。今は全員バラバラの方向を向いて、コーヒー牛乳をほとんど逆さにして、飲んでいるところ。そして、あっという間に飲み終わり、風呂の縁に腰かけたりする人も出たりしながら、各自集まって談笑を始めた。
 ノリオは熱くなった机の教科書につっぷして、その様子を見ていた。こっちはこんなに熱いのに、誰もこっちを見ていない。ノリオの小学校から初恋進行形の緑川さんも、友達と四人ぐらいで楽しそうにお喋りしている。笑っている。ノリオは虫歯になったのが自分でわかった時のような絶望的な気分になった。もうだめだ僕は。せつない。あ〜なんか、なんか文化祭とかも全然楽しみじゃなくなってきたなぁ。
 ノリオはいよいよこれまでと目を閉じた。すると、何やら声が聞こえてきた。
……私……
 これは。この声は。緑川さんの声だ。緑川さんの声が、かすかに聞こえる。どうして僕の耳に、聞こえないはずの緑川さんの声が。ノリオは薄目を開けて、外を見た。緑川さんがこっちを向いて、何やら喋っている。その口の動きに合わせて、声が聞こえてくる。
……私は……
 さては緑川さんが僕に何か伝えようとしているんだ。運命的な力がなんか作用してるんだ。効いてる効いてる。ノリオはここぞとばかりに耳を澄ませ、帰ったら耳掃除しよう、と思う。ああ! 今お母さんが話しかけてきたら心無い態度をとってしまう。それでも、さらに集中するために、ノリオは汗でびしょ濡れのシャツをズボンに入れた。すると、はっきりと緑川さんの声が聞こえてきた。
……私は泣けなかった…………映画館出るとき、他の人、カップルの女の方とかがなんで泣いてるのかわかんなかったし……その横を普っ通ぅ〜に通り過ぎて帰って……うん、私は泣けなかった……
 ああ、なんか、話題の映画の話をしている。くそう、なんていやな女だ。好きな女がいやなやつだった。