ノーベル物理学賞受賞者、母校に帰る

 ノーベル物理学賞を受賞した大学教授の大広末 新一郎が母校の高校を訪れた。お昼から、講演が予定されている。
 大広末教授が控え室で一服していると、ドアをノックしないで校長と教頭、そして生徒が一人入ってきた。一番前にいた校長が、ドアを開けた時に後ろを向いて教頭と喋っていたので、大広末教授はちょっとムッとしたが、そこは、ノーベル物理学賞はスウェーデンでもらうんだぞ、お前ら知らないだろ、という知識のことを考えて、ノーベル賞受賞者特有の落ち着きを取り戻した。
「大広末教授、こちらが、わが校の生徒会長、香田くんです。今日の司会は彼が務めるんです」校長が生徒を紹介した。
「こんにちは、私が大広末、ノーベル物理学賞受賞だよ」教授はかぶっている帽子にちょっと手をかけてから、その手を差し出した。
 香田くんはどぎまぎしたような態度で、握手を返さなかった。
「どうしたんだ、香田くん。せっかく大広末教授が手を差し出してくれているんだから、握手しておけばいいじゃないか」校長が注意した。
 香田くんは、下を向いて、時々チラチラと教授を見ながら言った。
「あの、僕、カリビアンコムに実際に登録して利用している人に会うのなんて、初めてだから、緊張してしまって」
「ははは、確かに、カリビアンコムに登録している人との握手は気が引けるな」と校長が香田くんの両肩を揺すぶりながら笑った。
「登録してないよ」と教授は言った。「カリビアンコムには」
 少し沈黙があったが、教頭が一つ手をたたいて言った。
「まあまあ、それはともかく、時間も時間なので、さっそく打ち合わせを始めましょう」
 全員、席に着いた。引き続き、教頭が説明をした。
「えー、まず、教授が入場する前に、司会の香田くんが全校生徒の前で喋るんですが、ここで、当初は教授のハゲの方を二、三いじってみようかな、ということだったんですね。そうだよね、香田くん」
 教授が顔を上げたが、香田くんはかまわず喋り始めた。
「はい、教授がハゲ隠したさに帽子をかぶってくるというのは読めすぎるほど読めていたので、ツカミは『シュレーディンガーのハゲ』という量子論ネタでいこうかな、と思ってたんです。そうやってつついてみて何が出るかな、という感じだったんです……が」そこで、香田くんはハンカチを出して鼻を押さえた。「これは、口臭をツカミにした方がいいかも知れませんね」
 教頭も香田くんにうなずきかけて、それから教授を見た。口呼吸していた。
「大広末教授、わかりましたか。私たちも驚いたんですが、今日、ここにきて、口臭という選択肢が出てきまして、こいつがかなりプンプンにおうんです。これを無視してハゲをいじるのは、ちょっと違うんじゃないかと思うような次第で」
 教授は怒って立ち上がりそうになったが、ノーベル賞受賞者としてのプライドで、心頭を滅却した。それに、ちょっと口内環境がこころもとない感じはあった。
「気になるようなら、歯磨きをしますよ」
「いえ、こちらでフリスクを用意しました」校長がフリスクを取り出して、チャカチャカと振った。「さっきご挨拶をしたあと、大急ぎで買ってきたんです」
「これを差し上げますから、スピーチの最中に要所要所で胸ポケットから出して、ポリポリ食べてください」と教頭が言った。「自分の間で」
「僕のツカミがフリになりますから、絶対ウケますよ」と香田くんが言った。「教授のくっさいくっさいウィークポイントを、せめて笑いに変えましょう。変えてやりましょうよ」
「救われましたねぇ、教授」と教頭。
 教授はまたイライラしてきて、これはキレてもいいんじゃないか、と考えたが、こんなノーベル物理学賞も受賞してないような奴らに対してマジになったら自分のノーベル物理学賞の価値が下がる、みたいなことを思ってグッとこらえた。そして落ち着き払って言った。
「では、わかりました。勝手にあれこれ言ってください。フリスクも、途中で出して食べます。それで満足なんでしょう。しかし、言っておきますけど、これは明らかに侮辱ですよ。ノーベル物理学賞に対しても、私に対しても、あなたたちは礼を欠いていますよ。私は、今怒って帰ることもできます。でも、そんなことはしません。そんなことにこだわらないからノーベル物理学賞が取れたと言っても過言ではないんですが、あなた方に言っても無駄でしょうね」
 三人はしばらく黙っていたが、香田くんが遠慮がちに言った。
「あの、長々と喋らないでもらえますか」香田くんはハンカチで押さえた鼻の前で手を振った。「においが」
 校長は無言で手を伸ばし、教授の前に三粒フリスクをふりだして、少し考えてからもう一粒ふりだした。
「フグは自分の毒じゃ死にませんからね」
「それに、なんていうか、そこまでノーベルノーベル言われてもねぇ」
ノーベルの腰巾着というか、コバンザメというか」
ノーベルの腹に吸着して生活し」
「頭部の吸盤は、生来の根性の悪さが変化したもの」
「他力本がりたい気持ちが変化したもの」
 三人は顔を見合わせてニヤニヤ笑った。
「でもとにかくね、色々言ってますけど、私たちが本当に言いたいのは、ノーベルのところにお前の名前を入れるぐらい頑張る、っていう気持ちがないのかと、そういうことですよ」
ノーベル賞を目指すってことは、ノーベルは超えられないってことだぞ」
「だからお前はノーベル止まりなんだよ。ノーベルに勝とう、やってやろうっていう気持ちが全然ない」
「最大限まで頑張れてないよ」
「まずお前に必要なのは、ノーベル努力賞じゃないのかと」
「うまいこと言った」
ノーベル口くさ賞ねらってる場合かと」
「くさいこと言った」
「おい早くフリスクを食べろよ!」教頭が机を思いきり叩いた。「ここまで言われてわかんないのかよ!」
 校長と香田くんはあきれたように顔を見合わせた。教授は黙っていた。
「正直、私からしたら広末涼子の方がよっぽどオオ広末だよ」
「僕がノーベルだったら、広末にあげてますよ」