足跡が、ぼくを、巣穴へ導く。奥にいるフェネックは、ぼくの足音に驚きながら、たぶんぼくの言葉を聞いているだろう。ぼくは彼に言う、<ぼくの小さい狐よ、ぼくは今度はさんざんだ、だが不思議なことには、こんなひどい目に遭ったことも、きみの生き方に、関心をもつ妨げにならなかった……>
そしてぼくは、しばらく夢想に耽る、人間というものは、どうやら、どんなことにも慣れるものらしい。三十年後に死ぬかもしれないという考えは、一人の人間の喜びを傷つけはしない。三十年も、三日も、要するに遠近法上の問題にしかすぎない。
だが、ある種の映像は忘れなければいけない……。

――(サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳 新潮文庫P168)

プレヴォーが、残骸の中に、奇蹟のオレンジを一つ見いだした。ぼくらはそれを分けあった。ぼくは、嬉しくて気が転倒しそうだ、ところが、二十リットルの水が必要だという場合、オレンジ一個はいかにも僅少だ。
夜の焚火のかたわらに寝ころんで、ぼくは、この輝かしい果実を見つめている。そして自分に言い聞かせる、<世間の人たちは、一個のオレンジが、どんなものだか知らずにいる……>ぼくはまた言う、<ぼくら死刑を宣告されている。それなのに今度もまた、この確乎とした事実が、ぼくの喜びを妨げない。ぼくが掌中に握りしめているこの半顆のオレンジは、ぼくの一生の最も大きな喜びの一つを与えてくれる……>ぼくは仰向けに寝て、自分の果実をすする。ぼくは流星を数える。しばらくぼくは、果てしもなく幸福だ。ぼくはまた独語する、<ぼくらが、いまその秩序に従って生きているこの世界のことは、もし人が自らそこに閉じ込められなかったら、察することもできない>と。ぼくはいまはじめて死刑囚の、あの一杯のラム酒と、一本の煙草の意味が了解できた。ぼくには、死刑囚が、どうしてあんな些細なものを受け取るのか、わからなかったのだ。ところが、彼は、実際それから多くの快楽を享けるのだ。彼がもし、微笑でもすると、人はこの死刑囚に勇気があると思い込む。ところが彼は、ラム酒がうまいので微笑するのだ。他人にはわからないのだ、彼が遠近法を変えて、その最後の時間を人間の生活となしえたことが。

――(サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳 新潮文庫P178)

ぼくら以外のところにあって、しかもぼくらのあいだに共通のある目的によって、兄弟たちと結ばれるとき、ぼくらははじめて楽に息がつける。また経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ。ひと束ねの薪束の中に、いっしょに結ばれないかぎり、僚友はなく、同じ峰を目ざして到り着かないかぎり、僚友はないわけだ。もしそうでなかったとしたら、現代のような万事に都合のよい世紀にあって、どうしてぼくらが、砂漠の中で、最後に残ったわずかばかりな食糧を分ちあうことにあれほど深い喜びを感じただろうか? この事実に対する、社会学者の憶測などに、なんの価値があろう! ぼくらの仲間のうちで、サハラ砂漠におけるあの救援作業の大きな喜びを知った者にとっては、他の喜びはすべてかりそめとしか見えない。
ともすると、これが理由となって、今日の世界がぼくらの周囲に軋みだしたのかもしれない。各自が、自分にこの充実感を与えるそれぞれの宗教に熱中する。言葉こそは矛盾するが、だれも皆、ぼくらは同じ熱情を云々しているのだ。ぼくら個々の理性の果実なる方法こそは異なるが、目的は異ならない、目的は同一だ。

――(サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳 新潮文庫P216)

 同じ方向、のところ有名ですけど、恋愛の話なんかしてるわけじゃないですから、それだけはどうかよろしくお願いします。

人間と、そのさまざまな欲求を理解するためには、人間を、その本質的なものによって知るためには、諸君の本然の明らかな相違を、おたがいに対立させあってはいけない。そうなのだ、きみらは正しいのだ。きみらはいずれも正しいのだ。理屈はどんなことでも照明する。世界に起る不幸を、せむしたちのせいだとかたづける男にも理屈はあるのだ。ぼくらがもし、せむしに対して宣戦したとしたら、ぼくらはやがて、彼らに対して激昂する理由を見いだすだろう。つまりぼくらは、せむしたちの罪悪に復讐して戦うわけだ。それにせむしたちとても、必ずなんらかの罪悪は犯すのだから。この本質的なものを引き出してくる試みとして、しばらく、人さまざまな相違を忘れることが必要だ。なぜかというに、これは一度認められるとなると動かしがたい多数の本然を、コーラン一冊分ほども将来し、それに立脚する狂信までも将来するからだ。もとより人間を、左翼の人と右翼の人、せむしと非せむし、ファシストとデモクラートに、区別することはできよう。しかも、このような区別は、非難しがたいものなのだ。ただ、本然というものは、諸君も知られるとおり、世界を単純化するものであって、けっして混沌を創造するものではない。本然というのは、全世界に共通なものを引き出す言葉なのだ。ニュートンはけっして、謎の解みたいに、長く隠れていた法則を<発見>したのではなかった、ニュートンは、創造的な仕事をなしとげたのであった。彼は、牧場に落ちる林檎を表現しうると同時に、太陽の昇ることも表現しうる人間の言葉を作り出したのだ。本然というものは、けっして自己を証拠立てるものではなくて、物事を単純化するためのものなのだ。
――(サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳 新潮文庫P219)