レギュラーピエロ争い

 三流大学受験に消しゴムを忘れて失敗し、親からも働けと責められた小谷は、学ラン姿で茫然と街を歩いていたところを謎の女スカウト花村に声をかけられた。
「君、大学落ちたでしょ?」
 それは、とあるサーカス団にピエロとして入団しないかという誘いだった。進路に悩んでおり、前からピエロにも興味があった小谷は、よしピエロになろうと決意、花村に連れられて海沿いの大きな公園までやってきた。そこでは、東京ドームの二分の一スケールのテントが、海辺の風を受けて揺れていた。
 花村が首にぶら下げていた笛を吹くと、テントの中で各自稽古をしていた総勢三人の全ピエロがこっちに向かってブラブラと歩いてきた。ピエロたちは遠いところにいたし、動きは心なしかのんびりだったので、集合まで小一時間かかりそうだった。
「小谷君、この笛の音が聞こえた?」と花村が言った。
「え? 聞こえましたけど……」
「この笛はピエロにしか聞こえないピエロ笛。小谷君、あなたはピエロになるために生まれてきた、天性のピエロ師なのよ」
 花村は道化師の感じでピエロ師と言ったが、意外と自然だった。小谷は、俺はそうなのか、と思った。
 ピエロたちは、二分かけてようやく集合した。
「みんな、おはよう。集合が遅いわよ。二分もかかったじゃない。火事だったら死んでるわよ!」
 防災訓練のような前置きをして、花村は小谷の肩に手を置いた。
「今日は、新しいピエロを紹介するわ。小谷君よ」
「小谷です、これからどうぞよろしくお願いします」
 パチパチと拍手があった。
 並んだピエロは三人、いずれも完全なピエロルックだ。目の上に×が描かれているので、視線の行方がよくわからない。もちろん、鼻にはお約束の赤く丸い大きな付け鼻がくっついており、顔の半分が口、そして手には風船を持っている。風船を持ったまま拍手をするのは一見高等技術のようだが、ヒモを指に挟めばいとも簡単にできる。
「俺は、ピエロの林」ピエロの一人が言った。「君とは、レギュラーピエロ争いをすることになるけど、手加減はしないぜ」
「よろしくお願いします」と小谷は頭を下げた。
「僕は、ピエロの西森だ」今度は背の高いピエロが一歩前に出て言った。「この中じゃ、僕が一番年上なんだ。何か困ったことがあったら相談に乗るよ。でも、もちろん僕だってレギュラーピエロ争いで負けるつもりはない。仲間であり、ライバルであり、ピエロ。そういう関係になれたらいいね」
 西森は風船の紐が沢山のびた手を差し出した。小谷はまた頭を下げながら握手した。風船を持ったまま握手をするのは今度こそ高等技術のように思われるが、これも指に挟んでおけばいいのでサルでも出来る。
「よろしくお願いします」
「そんなに恐縮しなくてもいいよ」と西森は笑った。
 順番的にはこいつの番だが、残ったもう一人のピエロは黙って下を向いていた。
「彼は、ピエロの影山くん」と花村が説明した。
「影山はいつもこうなんだ」と西森が笑った。「気にしないでくれ」
「ええ、大丈夫です」と小谷は言った。「よろしくお願いします」
 影山が、×印の奥で小谷をにらんだ。小谷はビクッと体を震わせて、た、助けて〜!という表情を浮かべたかと思うと、いきなり尻もちをついた。
「なるほどな」と林がそこに目をつけて言った。「こいつはウカウカしてられない。そいじゃ、よろしく頼むぜ、新人ピエロ」
 林はそのまま踵を返して離れていき、すぐさま、お尻に火がついた時の動きの練習を再開した。
「じゃあ、僕も練習に戻らなくちゃ。小谷君、よろしくね」と西森も離れていった。
 影山は、いつの間にかいなくなっていた。
 小谷は、林が取り組んでいる、林本人は『お尻アッチッチ・トレ』と略して呼んでいる練習に釘付けになっていた。
「凄い……」と小谷はため息をもらした。「凄いバタバタしてる」
「林君はピエロセンスの塊よ」と花村が言った。「最高レベルで安定したパフォーマンスは、国際的な評価も高いわ。長い歴史の世界ピエロ選手権でも、満点の4000ピエロポイントを出したのは彼を含めて三人しかいないの。そんな彼につけられたあだ名がパーフェクト・ピエロ。世界三大ピエロ、もしそんなものがあるならだけど、確実に彼は名を連ねるでしょうね。あなたはそんな林君とレギュラーピエロ争いをしなければならないのよ」
「僕が……あの人とレギュラーピエロを……」
「ええ、しかも、うちのピエロは彼だけじゃない」花村は、西森を指さした。
 西森は、靴が地面にくっついてしまったという体のパントマイム練習をしていたが、飽きて、お尻に火がついた時の練習を始めたところだった。西森は「尻に火をつける練習」と慣用句みたいに言う。
「凄い……」小谷はうなる。「凄い背ェ高い」
「西森君は、言うならば人柄のピエロ。林君のような完全さは無いけれど、そのあたたかみで固定のファンも多いわ。もちろんそれだけじゃなく、その高い身長を生かしたピエリングにも定評がある。それは林君には無いものだわ。ここだけの話、林君がこの小さなサーカス団に在籍しているのは、西森君とレギュラーピエロ争いが出来る環境だからなのよ」
「そんな凄い人たちを相手に、僕……」
 小谷はそう言いながらも、また林のお尻アッチッチ・トレに心を奪われていた。
「林君がさっきあなたに言った台詞を覚えているでしょ」と花村は言った。「林君が新人にあんなことを言うの、初めてよ」
 花村の顔を見て小谷は、自分のピエロセンスを少し信じてみてもいいじゃないか、という気分になった。その瞬間に、表情が、弾けるように明るくなった。
 ピエロスカウト歴の長い花村はそれを見逃さなかった。
「本当に、おもしろくなりそうね」と花村は独り言のように呟いた。
「え?」
「なんでもないわ、ピエロさん」
 テントの中では、ゾウが玉乗り練習を開始していた。二人はしばらくそれを見ていたが、やがて小谷は、テントの隅に影山がいるのに気付いた。
「花村さん、あの人は、影山さんはどんな人なんですか」
 影山もピエロのメイクをしたままだったが、ベンチに片方の膝を立てて座り、そこに顎を乗せて床の一点を見つめていた。下ろしたもう一方の足は、貧乏ゆすりをしており、足元には、タバコの吸殻が沢山落ちていた。
「あいつはピエロというか……」花村は言葉を探しているようだったが、やがて冷たく言い放った。
「泥棒よ」
「えっ」
「ピエロには全く向いてないし、人間的にも最低の男。すぐ人の私物を隠そうとするから、くれぐれも気をつけなさい」