アメリカビーバー・ソングブック

迷えるビーバーの歌


   ぼくビーバー どうしたってビーバー
   外では何が起こってる 巣にしみこんだ雨が
   元々濡れてる毛を湿らせるこんな日に


   噛み砕いた木々が歯茎に刺さるのに
   それでも前歯伸び続けるのか
   危険を知らせる時はしっぽで水面を叩くから
   耳は澄ませておけなんて父さんは言うけれど


   ほら今日もせっせとダム作ってる
   水せき止めてご満悦のぼくらがいるよ
   夜行の性が疼いて月夜にそっと巣を抜け出しても
   会うのはビーバービーバーばかり


   ぼくビーバー デイドリームビリーバー
   ダムと巣は実は一緒なんだ ダムガス スガダム
   森では今日もウサギが殺された


 大自然のアラスカでもいやなことぐらいある。ぼくはその日、とてもイライラしていたんだった。とは言ってもその日が特別だったわけじゃない。ぼくは毎日、色々なことにうんざりしていた。あんな薄暗い巣の中にいればなおさらだ。
 ぼくは、外に遊びに行こうとしたところを父さんに見つかった。
「どこへ行く気だ。今日はダムの点検をする日だろう」父さんが下品な前歯むき出しで言った。
「いやだね」と言う僕も前歯むき出しだった。
「どうしてだ」
「ぼくたちは、ダムに時間を取られすぎているよ」
「それがビーバーだ」
「それがビーバーなら、ぼくはごめんだよ」
尊い仕事だ」
 ぼくはカッとなった。尊い仕事。尊いってなんなんだ。父さんは何が楽しくて生きているんだ。
「何が尊いのかぼくにはわからないよ。なんか川ぐちゃぐちゃにしてるだけじゃないか。父さんは絵本の主役になりたいだけだろ!」
「ダムがあるからお前だって安全に暮らせるんだぞ」
「安全なんて糞喰らえだ。父さんはそうやって『川の名建築家』ヅラしてせっせと木でもかじってればいいんだ。ガリガリガリガリしてダムダムダムダム言ってビーバービーバーした人生を終えるんだ。父さんの、父さんの毛だらけ!」
「父さんに向かって毛だらけとはなんだ!」
 父さんは目にも止まらぬ速さで回転して、ぼくを黒いツルツルしたしっぽでひっぱたいた。ぼくの伸びすぎた前歯が一本吹っ飛んで、巣の入り口の水の中にチャポンと落ちた。
 ぼくは色々なことにドキドキしたけど、喧嘩してる手前、平静を装って、ニヤリと笑った。
「フフ……、これでぼくは木をかじることも出来ないんだ。これでぼくは、ビーバーじゃなくなったんだ。ダムなんか作ること無い、群れる必要も無い」
 ぼくは父さんのわきを抜け、すべるように巣の出入り口の水の中に飛び込んだ。そのまま通路を通って外へ出て、遠くへ遠くへとがむしゃらに泳いだ。ぼくはこのまま旅に出よう。その時のぼくは、単独行動されるといわれる、哺乳類なのに卵を産むといわれる、お乳で子供を育てるといわれる、しかも毒まであるといわれる、憧れの、オーストラリア出身カモノハシさんに一歩近づいたような清々しい気分だった。




巣を飛び出したビーバーの歌


   ぼくビーバー 迷える子羊ロック・オン
   前歯一本置き土産に ソロ活動開始
   つかむぞアメリカン・ドリーム


   ボーイスカウトの最少年代はビーバースカウト
   海の狸と書くけど、川に住んでいる
   そんなウィキペディア無視して一人ファイティングポーズ
   まだまだやれるはずさ


   長距離の四足歩行には適していない体(ボディ)
   鞭打って直進すれば輝ける新世界(ニューワールド)
   乾き始めた毛が知らせるぼくの進化(エヴォリューション)
   早まる鼓動 したたる汗 なんか体だるい(ゴッブレスミー)


   ぼくビーバー? アメリカビーバー? ノーアイムノット
   違うような気がしてる 心に秘めたカモノハシ聞かせて
   森では今日もウサギが殺された


 夜行性を盾に取り、ぼくは孤独な森で真昼間から眠った。すでに、川から何キロか離れていたはずだ。
「おい」
 野太い声でぼくは目を覚ました。慌てて体を起こすと、そこにいたのはリスさんだった。前歯むき出しだった。ぼくは野太い声を出したのがリスさんだとはとても思えなかったので、キョロキョロ周りを見回した。ほかには誰もいなかった。
「こんなとこで寝てちゃダメだよ。そんな腹出して寝てちゃダメ。アメリカクロクマとかクズリとか、色々いるんだからさ、食物連鎖に組み込まれるぞ」
 その声はやっぱりリスさんで、本当に野太かった。リスにしては、とかそういうことじゃなく、動物全体でみて野太かった。
「ありがとうございます。つい、ぼく、夜行性だから……」
「だからそういう問題じゃないよ。夜行性だから昼どこでも寝ていいってわけじゃない。ニートだから働かなくていいんですってニートが言ったらみんな怒るだろ。世間は叩くだろ。この場合、世間はアメリカクロクマだよ。お前はニートだよ。ニートなんだから気をつけなきゃ。しかもお前はその上、ビーバーだろ。川から離れて何してるんだ」
「ぼくは家出したんです。いや、旅に出たんです」
 リスさんはとても驚いたらしかった。
「家出でも旅でもどっちでもいいけどな、ビーバーの巣ってのはな、一番安全とされてるんだよ。セキュリティ万全なんだよ。いいか、考えてみろ、水の中からじゃ無いと入れないなんて凄い防犯だよ。三ツ星の巣なんだよ。俺らの巣を見ろよ。ただの木の穴だよ。待ち伏せ、水攻め、クチバシだってつっこまれるよ、そういう、なんでもありの一ツ星の巣なんだよ。保険にも入れない。イタズラでセミの抜け殻とか放り込まれてるのも一度や二度じゃないよ。それでも暮らさなきゃいけない。一方でお前はなんだ、最高の巣を捨ててきたっていうのかい」
 ぼくは自分が恵まれていたということを思い知った。でも、だからこそぼくは飛び出したんだ。
 その時、ぼくのお腹が鳴った。
「腹減ったのか」
「そうなんです」
 ぼくは周りを見回して、ポプラの木を見つけた。そしてそれを食べようと思って歩み寄ろうとした。
「待てよ」
 リスさんが言った。
「お前は家を飛び出してきた。お前がものを食っていられたのは親御さんのおかげだ。でも、それを捨てたんなら、働かざるもの食うべからず、だろ。さっきも言ったけど、お前はニートだからな。ずばりニートなんだ。というわけでどうだ、俺の元で働いて、その報酬として腹いっぱい食うのがいいんじゃないか。労働の尊さが学べるし、飯もうまい。コミュニケーション希薄なこんな世の中だからこそ、上下関係に接しておくのは他の奴と差をつけるいい社会勉強になるだろう。どうだ?」
「お願いします!」
 ぼくはリスさんの言ってることが全部ズバズバきてるような気がしたので、大きな声で申し出た。
「よし、決まりだ。同じ齧歯目のよしみで雇ってやるよ」




だまされたビーバーの歌


   色んな色んな固い木の実
   ひたすら割るからご飯がうまい
   そう思っていた
   ぼくのしっぽが叩き割る
   木の実は全部リスの胃袋
   おさまっていた
   リスにリスに リスにだまされた

 
   自慢のしっぽは傷だらけ
   ハンドクリームのつけ忘れ
   今じゃ見た目がただの棒きれ
   ぼくのしっぽはいとあわれ
   とらわれのクルミ割り人形
   そんな自分にセイグッバイ


   聴け ぼくの声を 森のざわめきを
   震える魂が心の郵便ポストにねじ込んだメッセージ
   届け オーストラリアまで
   宛名カモノハシ様 住所は巣でいいか
   届け オーストラリアまで
   森では今日もウサギが殺される


「辞めさせてください」
 ぼくの目はこの時、凄い迫力をたたえていたに違いない。ぼくの心をぎゅっとしぼれば、怒り百パーセントジュースだった。今は、あのジャパニーズソングの、毎日毎日鉄板の上で焼かれたタイヤキ君の気持ちが痛いほどよくわかる。彼と同じように、ある朝、ぼくは突然行動をおこしたのだ。やになっちゃったのだ。
「そいつは残念だな」
 リスはそう言って、おそらく木の上から様子を見ているんだろう仲間にしっぽで合図した。すぐさまゴツゴツした木の実が落ちてきた。
「最後に、これだけ割ってもらおうか」
「なめるな!」
 ぼくはリスに詰め寄った。木の上のリス達がざわめくのがわかる。
「ぼくのしっぽを見ろ。何百個も固い木の実を打ちつけてボロボロなんだ。あんなにツルツルして、羊羹みたいだったしっぽが、今じゃ、今じゃ、なんだこれ! いっぱい傷のついたプラスチックの靴ベラみたいな、なんだこれ!」
「おぼっちゃんビーバーにはわかるまいが、それが働くってことなんだよ。まさに身を削ってその対価としておまんまをいただく。それが働くってことのとどのつまりなんだよ。みんながみんな、それをやってる。ライオンからアリクイ、メガネザルまでやってるよ。甘ったれたことを言う暇があったら木の実を割れ」
「もうだまされないぞ!」
 ぼくは同じ疑問を抱いてリスに詰め寄った二週間前、これと同じ台詞を聞き、その時は感動してしまい、心を新たに働き始めたのだった。もう、リスの口車にはうんざりだ。口の巧いリスなんて碌なもんじゃない。
「いったいどういう風の吹き回しだ、ビーバー」
「リスは、お前らはやってないぞ。ぼくにばっかり、かったいかったい木の実割らせて……ドングリでも食ってろ!」
「今時ドングリなんか誰が食うかよ」
 それを合図にしたように、木の上にいた仲間のリスが隠れるのを止めて出てきて、腕を組み、あごを上げ、ハハハ、と笑った。ハハハドングリだって、と笑った。気付くと、木は腕組みしたリスで埋め尽くされていて、それはとてもむかつく光景だった。三十匹以上いる。彼らは、普通ならそんなに食べられない木の実をぼくのおかげでハイペースで食べてきたので、ブクブクに太っていた。ブクブク太った三十匹のリス達が腕組みをしてぼくを見下ろしている。ぼくの怒りは頂点に達した。
 目の前のリスに飛びかかろうとしたその時、カモノハシさんの声が頭の中で響いた。
――怒ったら君の負けです。心頭を滅却しなさい。そうすれば、リスもまた涼し、です。
 ぼくはクルリと反転して、駆け出した。ありがとう、カモノハシさん。平常心平常心、と自分に言い聞かせながら。
「おい!」「おいビバ尾!」「どこ行くんだよ!」「考え直せビバ尾!」
 頭上から、リス達の声が聞こえる。ちくしょうあいつら、ちくしょう。自分勝手で、こっちの気持ちなんかこれっぽっちも、こっちの気持ちなんかこれっぽっちも考えないで、影でビバ尾なんて呼んでいたんだ。
 ぼくは一度だけ振り向いた。そこには、クルミが一つ飛んできていた。
 打ち返して、これをあいつの鼻っ柱に。瞬間的にそう考えた途端、ぼくの体中の全、毛がブワリと逆立ち、内から湧き上がる何かがぞくぞくと体を震わせた。
 ぼくは、普通のビーバーならダム作りに傾けるはずの一生分の力をここで全部使い切ってやろうと、ぼろぼろのしっぽにバットの役割を託した。四本の足を踏ん張って、木の実に対して垂直に構える。
「くらえ!」
――罠です。あいつらは木の実が食べたいだけなのだから。
 ぼくはカモノハシさんの冷静な洞察力に感謝した。そして、また駆け出した。木の実をしっぽで打って勢い余って割ってしまうなんて真似はせず、もう振り返らないで、ただ四本の足を夢中で動かした。木の実が土をうつくぐもった音が耳に入り、ほとんど同時に、チッという音が三十匹分聞こえた。




恋するビーバーの歌


   君のためなら 最後の前歯も捧げて祈るよ
   満月の夜 カエルうるさい恋の夜
   君は何をしてる?


   お腹がいつもペコペコな 君に恋に落ちた
   夜空の星はキラキラと 何百年後のぼくらを見てる
   永遠に続くアラスカの夜 弾けるぼくのアムール
   もしも真っ暗闇になったってぼくを呼べばいいんだよ


   君に乗っかって 君の背中を眺めていたい
   だけどかわされて 川辺にムーンライト
   それで飽きもせず 踊るだけ


   今は違うから 孤独な夜のこと忘れてたよ
   そう君がいる そのぬくもりが肌を刺す
   ぼくは何を思う?


   しっぽがボロボロぼくは 君に恋に落ちた
   川に映せばユラユラと 綺麗じゃないのと君が笑う
   二人を包むオーロラにサンキュー 燃えるアバンチュール
   だからこのまま消えちまったってぼくは別にいいんだよ


   君に乗っかって 君の背中を眺めていたい
   だけどかわされて 川辺にムーンライト
   それで飽きもせず 踊るだけ ただ踊るだけ


「今日はどこに行くの」
 いつもの場所で落ち合った彼女は、ぼくは巣を出て初めて自分の名前を教えた女の子。一人になって、広大な森にはぼくが知らないビーバーが沢山いるということを知ったけど、彼女はその中の、でも特別な一匹だ。
「川に行くんだ。ぼくのダム作りを見たいって言ってただろ」
「まあ、嬉しいわ」
 木の上には、知らないリス達がぼくたちの様子を眺めていた。
「ヒューヒュー!」「お熱いこっての絶倫ビーバー!」「発情期にはまだ早いぞ!」
「う、うるさいなあもう! やめてよ、リスさん達ったらやめてよ!」
 ぼくはリスに不当に働かされて以来リスが心底嫌いになっていたけど、この時ばかりはまんざらでもない気持ちがした。
「ほんと似合いのカップルだよ。心からおめでとうを言いたい気持ちだよ俺達は」「だからこれ、割ってくれよ。くす玉だと思って割ってくれよ!」「二人の前途を祝して、そして俺達のおめでとうの気持ちを爆発させるように、割っちゃってくれよ! やっちゃってくれよ!」
 ぼくは、ありがとうという気持ちを態度で示すように、幸せなら態度で示そうよというように、しっぽを叩きつけ、落ちてきた木の実をくす玉感覚で割った。ぼくのしっぽはあれ以来感覚が無いので、逆になんでも出来るようになっていた。
「おめでとう!」「おめでとうまそう!」「うまそ、おめでとう!」
 リス達はそばに寄ってぼくらを祝福したいようだったけど、邪魔しちゃ悪いと思ったのか、木の途中までしか降りてこなかった。ぼくはリスをじっと見ている彼女をうながして、また歩き出した。
「今日も、泳がないの」
「ええ」
 ぼくは一人で川に入った。そして、彼女にいいところを見せたい一心で、枝を集め、挙句の果てに一本だけの前歯で木を何本もかじり倒し、それを軸にして立派なダムを作った。完成した時には日が暮れていたし、ぼくの前歯は自分でもこれからが不安になるほどすり減っていた。ぼくがかつての自分の思いを裏切って、ビーバー丸出しの行動をしたのには理由がある。
「凄いわ。見事なダム」
「あのさ」
「なぁに」
「ここで、このダムで、つまりこの巣で、一緒に暮らさないかな」
 ぼくは水の中から彼女にプロポーズした。この時ばかりは、ぼくの中のランキングでカモノハシさんが二位に甘んじていたのだ。
 彼女は下を向き、震えていた。ぼくはとても慌ててしまった。
「ど、どうしたのさ」
「嬉しいのよ。凄く嬉しいのよ」
「じゃあ……」
「でも、ダメなの」
「どうしてさ。今すぐにでも、ここで暮らせるよ。それでいいじゃないか。家族に遠慮することもないよ、君もぼくも、もう大人だ」
「あたし、クズリだから。イタチ科クズリ目だから……」
 メアリは諦めたように、きっぱりと言った。ぼくは、ネズミ目ビーバー科のぼくは、酷使した前歯が急に痛んでくるのを感じた。クズリ。
「あたしはいつも寝る前、夜空に思うの。どうしてあなたはビーバーなのかって。そして、それと同じくらい、どうしてあたしはクズリなのかって。さぞかしいい悲劇が書けるんだわ」
 彼女は泣いていた。
混乱したぼくの頭の中は、だけど、だんだんと整理されていった。彼女がいつも水に入ろうとしないわけ、いつもお腹を減らしているわけ、我慢できなくなって「ちょっとご飯食べてくる」と言って口や顔を血だらけにして帰ってきたわけ、リスが木から降りてこなかったわけ、森でウサギが殺されているわけ、ぼくがそれを見て「怖いね」と言ったら「うん、そうね、もったいないわね」「え? 怖いねって言ったんだよ」「あ、やだ、うそ、あら、木の実の話かと思った。そう、完全に、木の実の話してるのかと思ってたの。私ったら、ずうっと木の実の話してると思ってたんだわ。ずっとずっと、年をとってもこうして木の実の話ばかりして過ごせたらいいなって、そんなことを思ってたの」とよくわからなかったわけ。
「本当に愛していたの。でも、さよなら。もう、リスにはだまされないで」
 ああ、さっきぼくはまたリスにだまされたんだなとぼんやり思った途端、ぼくの視界がみるみるうちに真っ白になっていった。




つかまったビーバーの歌


   目が覚めれば知らない場所で震えてる
   見知らぬ人が狩人の格好でぼくを見る
   夢の中では水の中 自由に泳いでいたのだけれど
   今は乾いた哺乳類
   なぜだかぼくはわからなかった
   ぼくはいつごろ大人になるんだろう
   ぼくはまだまだ子供でいるんだろう


   何も知らずに知らない場所を夢見てる
   あの夕焼けに近づけるんだと瞬きしてる
   どんなに遠くに歩いても どんどん離れていくものばかり
   恋に破れてもわからない
   あの頃誰かにきけばよかった
   ぼくはいつごろ大人になるんだろう
   ぼくはまだまだ子供でいるんだろう


 気がつくと、そこは知らない小屋の中だった。ぼくは台の上に腹を出して寝転がっていた。
「気がついたか」
 ガバリと体を起こそうとした途端、頭に痛みが走った。ゆっくりと声のした方に体を向けてみると、そこには革のベストを着た人間が立っていた。
「ぼくをどうする気だ!」
 ぼくは恐ろしかったけど、叫んで、先制パンチを喰らわした。人間を見たのは初めてではなかったし、人間に一度なめられてしまえば上野動物園まっしぐらということを父さんに教わっていたからだ。
「ずいぶん威勢がいいが、むしろ感謝して欲しいってもんだ。君を助けてあげたんだからね。君は川をぷかぷかぷかぷか、腹を出してただよっていたんだよ。あのままじゃ、間違いなくクズリに、しかもこのあたりの動物を片っ端から食い殺す女クズリにやられるところだったからね。しかし、私もふるえたよ、ビーバーを生け捕りにするなんて滅多にあることじゃないからね」
 ぼくは女クズリのとこでかなりドキッとしたけど、平静を装って話を聞いていた。
「見上げてごらん、この壁を」
 ぼくはガンガンする頭をおさえながら、壁を見上げた。壁四面の上の方いっぱいをぐるりと、動物達が顔を出していた。
「こ、これは」
 ここは大きな声を出す場面だったけど、先制パンチの時、大きな声を出すとかなり頭が痛いぞということをさっきは別に言わなかったけど学習していたので、普通の声で言った。
「そうさ。鹿で有名な、動物の首から上だけのはく製だよ」
「なんて悪趣味だ」
「ビーバーもある」
 男は指差した。
「あ、本当だ……父さん!」
「ん?」
 なんてことだろう。それは間違いなくぼくの父さんだった。父さんは前歯を出して安らかな顔でちょっと間抜け面で、壁から顔を出すような形になってしまっていた。ぼくはフラフラと台の上から降りて、ゆっくりと近づいていった。近づくほどに父さんだった。
「そんな」
 ぼくの体から血の気が引いていた。
「ふふふ、そうか、これが君の。ふふ。そうだ、その顔の下にあるボタン、三角のマークがあるのを押してみなさい」
 ぼくは振り向いて男の顔をにらんでから、体を伸ばし、何個かついているボタンを押そうとした。全然届かなかった。そりゃ、ビーバーの手が届くような低い位置にそんなでっぱった邪魔くさいものをとりつけるはずがないのだ。ぼくはビーバーだから最初わからなかったけど、この男はぼくが届かないことを見越して押してみろと言ったに違いない。
「うう、人間め。ぼくを侮辱したな。うう、人間め」
「私に頼んでみたらどうだ」
「なんだと」
「ボタンを押してください、と頼んでみたらどうだと言ってるんだ。ボタンに届くに違いない私に、どうかボタンを押してください、と土下座してみたらどうだ」
 ぼくは少し考えたけど、やっぱり気になるので、土下座した。というか、這いつくばった。この際、上野動物園に行ってもいい、どうにでもなれだ。
「ボタンを押してください」
 男は満足そうに微笑むと、歩み寄ってきて父さんの下にあるボタンを押した。


   ラーラーラー ラララ ラーラーラー
   ラーラーラー ラララ ラーラーラー
   ラーラーラー ラララ ラーラーラー
   (パパラパッパパパー パーパ・パ! )
   砂まじりの茅ヶ崎ぃ 人も波も消えてぇえぇー


「やめてくれ!」
 ぼくが叫ぶと、男がボタンを押して音楽は止まった。それはいい歌だけど、父親のはく製のバックに流されるものとしては明らかに選曲ミスだった。ぼくは情けなくなった。だってそうだ。土下座をしてボタンを押してもらったら、サザンオールスターズの『勝手にシンドバッド』が大音量で、ほとんど父親の顔部分から流れてくるなんてひどい。
「私の趣味でね。首から上の動物のはく製を片っ端から集める。自分で狩りをしたり、人から買ったり。そして、好きな音楽をつける」
 男はもう一度ボタンを何度か押した。


   不っ思議なものねあーんたを見ぃればぁー
   胸騒ぎの腰つき 胸騒ぎの腰つき 胸騒ぎの腰つき


 その悪趣味はいいとして、どうして、どうしてこの曲なんだ。サザンオールスターズが好きだとしても、もう少し色々あるはずだ。時代の一歩先をゆく桑田さんの才能からすれば、もっと色々あるはずだ。ぼくと父さんの悲しい再会を、こんな風にちょっと愉快にでなく、涙で濡らすようなものにしてくれる曲が沢山あるはずじゃないか。
男は手を止めなかった。


   こーころぉなしか今夜ぁあぁー 波の音がぁしーたわぁー
   おーとこぉー心さぁそうぅー
   胸騒ぎの腰つき 胸騒ぎの腰つき
   むーな騒ぎの腰ラーラーラー ラララ ラーラーラー
   ラーラーラー ラララ ラーラーラー
   ラーラーラー ラララ ラーラーラー


「うう。人間め。なんてことするんだ。好き勝手、めちゃくちゃしやがって」
 ぼくは男をにらみつけた。でも、ぼくの頭の中では「胸騒ぎの腰つき」のリフレインが止まらなかった。だからこそ男を憎んだ。
でも、男の腰にピストルがあるのに気付き、反射的に、やばい撃たれるごめんなさい、と思ってぼくは視線を外した。すると、沢山の動物、シカからウサギから珍しいのはラクダから、に目がいった。ぼくも、ビーバーがダブるとしても、こうされてしまうのか。父さんの隣に設置されて、「←親子→」なんて矢印でつながれてしまうのか。その時、その一つ一つに取り付けてあるボタンが光を反射して輝いているのが目についた。ぼくは生きようと判断した。
「すごいコレクションですね。とてもユニークでおもしろいと思います。他の動物のもぜひ聴かせてくださいませんか」
 急に男の頬がゆるんだ。
「ん? 知りたいか?」
 ぼくは大人になったような気がした。少し悲しかった。




ついにやって来たビーバーの歌


   ここが ここがオーストレイリアか
   カモノ カモノハシさん在住か
   ついに ついにやってきたんだなぁ


   エアーズロックも見ったいなぁ
   コアラと写真を撮りたいなぁ
   だけど 残念とらわれの身

 
   ぼくの獣臭 カモノハシさんに届いてるかな
   外来動物丸出しのぼくが放つ異な匂い
   どうすりゃいいのさこの気持ち
   ご当地グッズを買いあされ

 
   ぼくを連れてる男の目
   冬場の水道水のように冷たい
   それが心配の種だけど


   ぼくの胸の鼓動 カモノハシさんに聞こえてるかな
   初めての海外丸出しなぼくの止まらぬ脈打ち
   どうすりゃいいのさこの気持ち
   名産品がわからない


「ここがオーストラリアだ」
 男は、ぼくの首から伸びるヒモを握った手を大きく広げて深呼吸した。ぼくは慌ただしく、空港ロビーのツルツルした床のにおいをかいでいた。
 三日前、話をのばしのばしに、男に取り入ろうと色々な動物の首から上の部分から流れてくる音楽を聞きつくして「趣味がいいですね。ペットにしてください」と褒めつくして取り入ろうとしたぼくは、健闘及ばず、とうとう「ウルフルズの曲をつけてやる」と銃を向けられた。「何か言い残したことはあるか」ぼくはウルフルズの曲をつけられるのはなんとなくいやだったし、何より死にたくないので、そんな質問には答えず、我を忘れて、「カモノハシさーん!」と叫ぶばかりだった。条件反射で、ぐちゃぐちゃのしっぽを床に叩きつけた。「カモノハシ?」男は銃を構えたまま言った。「助けて、カモノハシさん!」男はしばらく考えて、こう言った。「俺のコレクションにないな」「助けて、カモノハシさん助けて!」「カモノハシというと、オーストラリアか」「カモノ、カモノハシさん!」「オーストラリアにしかいない動物は沢山いるな」「カモノハッさーん!」「なるほど、おもしろい」「カモノハッさーん!」男はニヤリと笑って銃を下ろした。「ちょっと黙れよ」
 カモノハッさーん!
 空港から出ると、凄い暑さだった。アラスカとは大違いだ。
やがて、ぼくたちの前に一台の車が前に止まった。男は何も言わずにドアを開けて助手席に乗り込み、ぼくは後部座席に放り込まれた。運転している男はヒゲが凄かった。二人の男が挨拶を交わすことはなく、車は走り出した。
 車は猛スピードで道路を何時間も進み、ついに生い茂る木に囲まれた田舎の道路脇で止まった。結局、誰も一言も喋らなかった。男とぼくが降りると、車はUターンして走り去った。
「今のヒゲの人は?」ぼくは尋ねた。
 男はいつの間にか、長細い銃をかついでいた。ぼくは一瞬、身を固くした。
「知らない人だよ」
 そんな馬鹿な。ぼくは少なからずショックを受けた。知らない人の車に何時間も乗ってちゃんと目的地らしき場所に着くなんて。
「そんな馬鹿な話があるかい」
 ぼくは、自分が思わず言ってしまったのかと思った。でも違った。ぼくが後ろを振り向くと、大きなカンガルーが男の後ろにいて、男のかついだ銃の口を力強くつかんでいた。
「そんな馬鹿な話は無い。あたしの、何匹も子供を育てたこの袋がそう言ってる」おばさんカンガルーは言った。「ここに何しに来た」




わかったりわからなかったりするビーバーの歌


   ぼくらは時々嘘つくぞ
   自分に他人に嘘つくぞ
   何を信じる信じない
   わからずべらべら喋りだす


   コーラを飲んだら骨溶ける
   タバコを吸ったら寿命が縮む
   牛乳飲むから平気だよ
   そもそも寿命がわからない

 
   ぼくたち テラライ 根性なし
   いつでも テラライ わかってない


   ぼくらは飽きずに嘘つくぞ
   なりふりかまわず嘘つくぞ
   知ってるつもりで話し合い
   途中でへらへら笑い出す


   うちの母ちゃんでべそなら
   それならそれでかまわない
   だけど嘘なら許されない
   ぼくはそれなら許さない


   今日も テラライ また明日
   こうして テラライ 生きていく
   何が嘘かもわからずに


 男は瞬時に、銃を中心にして体勢を変えた。おばさんカンガルーは銃を離さなかったけど、銃口を自分の胸に向けられる形となった。男もなかなかやるのだ。
「少しでも動かしてみろ、この年増のカンガルーが。その瞬間に撃つ」男が言った。
 おばさんカンガルーは思い出したように、銃をつかんでいる指の一つを銃口に突っ込んだ。
「なかなかやるようだけど、これで撃てないわね」
「どうかな」男は言った。
 ぼくはその時、男の言わんとしていることがわかったような気がした。銃口に指を突っ込んだまま撃ったら暴発するということはよく聞くけどいまいち信じられないまま生きてきた男は、もしかしたら別に撃てるんじゃないだろうかという気持ちを捨てきれないままいるんじゃないだろうか。むしろ試してみたいと思ってるんじゃないだろうか。ぼくも、おばさんカンガルーには悪いけど、そうだった。
「指を突っ込めば暴発する、とはよく聞くが」
やっぱりだ!
 おばさんカンガルーの顔が明らかに不安になったのをぼくは見逃さなかった。おばさんカンガルーもまた、指を突っ込むと暴発する確信を持っていなかったんだ。でも、突っ込んで「これで撃てないね」と言った手前、おばさんカンガルーは指を離せなかったし、離したところでどうにもならないのだ。どうしてぼくたちはこんなつまらないことでピンチに陥ってしまうんだろう。
「調子に乗らないほうがいいよ。そうじゃなきゃ、丸腰の主人公が映画であんなに銃口に指を突っ込むはずがないじゃないか」
「残念ながら、実際、俺はそんな映画を観たことがない。それに、なんとなくだが、その主人公は頭のきれる奴じゃなかったか。臨機応変にその場を切り抜ける、悪く言えばはったり野郎じゃなかったか」
「おばさんははったりだ!」ぼくの口からは思わずそんな言葉が飛び出していた。
 カンガルーおばさんは、どっちかといえばぼくに味方する感じで出て来てくれたとは思えないほど怖い目つきでぼくをにらんだ。ぼくはおばさんから目を背けた。
「どっちにしろ、暴発しない可能性がゼロで無い限り、あなたは撃てない」
「そうかな」
「そうよ」
「じゃあ、残念なお知らせだ。俺は浦沢直樹の『マスターキートン』でこういうことを読んだ。銃弾は指を吹き飛ばしながら直進し、胸を貫く」
「マンガでしょ」
 おばさんカンガルーがあきれたように言い放った瞬間、男は間違いなく動揺した。同時に、おばさんカンガルーは自分のわきの下に向けて銃を引き抜く動作で加速をつけながら男に迫る。ほとんど同時に大きな音がして、おばさんの背後の地面の一点から土が跳ね上がった。ぼくは反射的にしっぽを地面に打ちつけていた。
 全てが一瞬の内に詰め込まれて、もう終わっていた。そこには、カンガルーに顔面をパンチされた、浦沢直樹のことを信じ切れなかった男が横たわっていた。
 ぼくはおばさんカンガルーを見た。そして思い知った。カンガルーはボクシングが得意なんだということ、そして、どこの国でもおばさんはマンガを馬鹿にするということ。結局、一番知りたかった暴発するのかしないのかはわからないままで、ぼくがわかったのは、何かを知るためにそこまで無茶はしたくないということだけだった。




つかみどるビーバーの歌


   おばさんカンガルーのポッケには何かが沢山入っている
   それをこの手でつかみどり
   ぼくはワクワクしてしまう
   でも欲しいのは何かじゃなくて
   つかみどりの方なんだ


   夢をつかむなら利き手の方がいい
   使い慣れてるから
   一度にぎりこんだら決して離さない
   あこがれたドリーム
   こわれたりしないさ


   必死で祈っていると両手がふさがるよ
   違う その手を伸ばすんだ そしてつかみどるんだ


   ぼくの小さなこの手の中にはいったい何が入るんだろう
   それを知るためつかみどり
   ぼくはドキドキしてしまう
   でもほんとうはわかってる
   つかみどりが好きなんだ


   夢をつかむなら逆手の方がいい
   かっこういいから
   そのまま反対側の胸の前に持ってきて
   お決まりのポーズ
   決めればヒーローさ


   大人じゃないような子どもじゃないような
   気持ちでその手をにぎりこむ


 ぼくが夢を語ると、おばさんカンガルーはカモノハシさんのところまで案内してくれると言ってくれた。
「しかし、カモノハシを見るなんてことが夢になるとは思わなかったね」
「そう、かな」
 おばさんカンガルーの一回のジャンプはぼくの全力疾走三秒分に相当するので、ぼくはへとへとになっていた。喋るたびに言葉が途切れてしまっているのに、おばさんカンガルーはカモノハシさんのいる川を目指して飛び跳ねていく。
「あの、おばさんの、ポッケにさ、入れてくれないかな」
 ぼくは歩くのを止めた。おばさんも止まって振り返った。
「あたしの袋に? そりゃダメだよ」
「どうして。ぼく、正直言ってへとへとなんだ。それに、前からカンガルーのポッケに入ってみたかったし」
「ダメったらダメだよ」
「ねえ、いいでしょ、ぼくをポッケに入れてよ。首だけ出させてよ」
「ダメって言ってるだろ、わがままな坊やだね。それにこれはポッケじゃない、袋だよ。有袋類なんだよ」
 ぼくは一本しかない前歯で下顎を噛んで聞いていた。なんだこのおばさん、なんだこのおばさん、なんでダメなんだよ、うぜえ。ぼくは疲れていらいらしていたので、そんな言い方をされるともうダメだった。
「じゃあ気を遣えよおばさん! 一人でどんどんジャンプしていっちゃって、え、なんなんだよ、一体なんなんだよ。でかい図体してピョンピョンピョンピョン、ちょっとは考えろよ。こっちは全然ついていけてないんだよ。こちとらビーバー、頑張ったけど、小さいなりに頑張ったけど、地上でそんなに歩けるようにはできてないんだよ、ハァハァ言っちゃってダメなんだよ。足が棒なんだよ。水が飲みたいんだよ! せめてシッポにつかまらせろ!」
 おばさんは首をこちらに向けたまま、動物園では人気の出なさそうな目でこちらを見つめていた。
「袋とかポッケとかポケットとか、そんなん、なんでもいいよ。そこのこだわりは理解できないよ。袋なら袋でいいから、とにかく入れさせてくれよ! 楽したい、楽して生きていきたいんだよ!」
 ぼくはだんだんと感極まってきて、とうとう地面にはいつくばった。すると、視界に茶色っぽいものが押し寄せたと思った途端に、もう左を向いていた。左を向くつもりなんて全然無かったのに、左を向いていた。そして、口元がじんじんしていた。
 ぼくは何が起こったか考えた。すぐにわかった。
「ごちゃごちゃ言ってないで、歩くんだよ。もうすぐ着くんだから。そこには水もあるし、カモノハシもいる」
 ぼくは一歩も動けなかった。それを心配してか、おばさんカンガルーは歩み寄ってきてくれた。
「ぼく、しっぽでぶたれたの、初めてじゃないんだ」
 おばさんは全て理解しているようだった。
「一人で生きていくのは大変なことさ。ソロ活動するミュージシャンがバンド時代より売れたことがかつてあったかい」
マイケル・ジャクソン……」
 ぼくはそんなこと言う気はなかったのに、思いついたので言ってしまった。言ったことを後悔した。
「そうだね。でも、マイケルはあの時まだほんの小さな子どもだった。マイケルはあたし達に教えてくれる。一人で生きていくには大人にならなきゃいけないってことを。それから、やりすぎはいけないってこともね」
 おばさんのうまい切り返しが、ぼくの目に涙を溢れさせた。
「おばさん……」
「ポケットに入るのはいけないけど、手を突っ込んでごらん」
 おばさんがお腹をぼくに寄せた。ぼくは袋の縁に左手をかけて、右手を突っ込んだ。中には小さなものが沢山入っていて、かき回すとこすれあってザクザクと鳴った。
「いっぱいある、何だろうこれ!」
「好きなだけつかみどりしてごらん」
 ぼくは持ち前のゆるい握力を極限まで使って、中のものをわっしとつかんだ。
「もっと!」おばさんが叫ぶ。
 ぼくはつかみなおす。
「まだ!」おばさんが叫ぶ。
 ぼくは意地になる。思い切り手を広げてつかみなおす。
「どっこいしょ!」おばさんが叫ぶ。
ぼくはそれから何回もつかみどりなおした。その手に、つかみどれるだけつかみどろうと、何度も何度もつかみどりなおした。何回もつかみどりなおすうち、二回目のときが一番つかみどれていたんじゃないかというジレンマに苦しめられたけど、夢中でつかみどりした。
納得できる手ごたえがあって慎重に引き出すと、つかみどりきれていなかったものが地面にバラバラと落ちた。それは赤や黄色や緑や青、彩り豊かな袋に入った、色々な種類のアメ玉だった。
「アメだ!」ぼくは言った。
「それよりも、その感じを、何かをつかみどる感じを忘れちゃいけないよ」
 それはなぜか、凄く感動的な台詞に聞こえた。ぼくの目頭がまた熱くなった。涙がこぼれないように、おばさんの顔を見上げた。涙を見せるのは不思議と恥ずかしくなかった。
「ねえ、おばさんの夢は何?」
 おばさんカンガルーは少し考えていた。
「あたしは、オーロラが見てみたいね」
「ぼくには、それが夢になるなんて思えないよ。ぼくは飽きるほど見たんだもの」
「だから、自分の夢ってやつなのさ」
 おばさんは笑った。
ぼくは一つ選んで赤い袋に入ったアメをなめた。甘酸っぱい味がした。
「おばさん、凄くおいしいや。あと、黒飴はいらねえから戻しますね」




大人になりたいビーバーの歌


   パーティーに行くなら着飾っていきなよ
   憧れの人に会うならビシッとしていきなよ
   でもぼくビーバーだから
   せめて心に蝶ネクタイ
   気配にまとうタキシード


   そうだったらいいのにな
   そうじゃないから悲しいな


   どんなにどんなに頑張っても
   こんなにこんなに未熟さ
   そんなにそんなに意地張るなよ
   大人に大人になりなよ

   どうしても苦手ならワサビは抜きなよ
   食べれないものあったらお父さんにあげなよ
   でも一人ぼっちだから
   早く大人にならなくちゃ
   ポケットにはハンカチーフ


   明日天気になるのかな
   わからないから楽しみだ


   ジェントルマンシップにのっとりたいけど
   ぼくのハートはゆがんでる温湿布
   なんとなくそんな感じ


   どんなにどんなに頑張っても
   こんなにこんなに未熟さ
   そんなにそんなに意地張るなよ
   大人に大人になりなよ
   どうしてどうしてこうなのさ


 川の匂いがした時、ぼくはなめていたアメを吐き捨てて走り出した。それには色んな理由があったと思う。暑かったこと、水が飲みたかったこと、久しぶりに川で泳ぎたかったこと、何か変なぼくのきらいな甘ったるいものがアメの中に埋め込まれていたこと、そして何より、カモノハシさんのこと。
 水は少しぬるいような気がした。でも、この水の中をカモノハシさんは泳いでいるんだ。水が口の中に入って吐き出すこともあるだろう。ぼくはカモノハシさんが吐き出した水の中を泳いでいるんだ。
ひとしきり泳いでから、ぼくは川から上がった。暑かったので、毛についた水はそのままにしておいた。
「カモノハシに、あんまり期待しちゃいけないよ」おばさんカンガルーが言った。
「どうして」
「夢が実現した瞬間は、夢がなくなる瞬間でもあるのさ」
 ぼくはちょっと腹立たしい気分だった。ぼくの夢が叶う直前に、そんなことを言う必要ないじゃないか。
「オーロラも大したことないよ。あんなもん、空に浮かんだ湯葉だよ」
 ぼくは一矢報いてやろうという考えだったけど、言ってから、言わなきゃよかったと思った。どうして、人が好きなものを否定したくなったりなんかするんだろう。その人だって、ぼくが何かを好きなように、ぼくが好きじゃないものを好きなのに、ぼくはそれが我慢できないんだ。
「すぐに変わるもんじゃないのはわかるけど、あんたは本当に子どもだね」
 ぼくもそう思っていた。ぼくを変えてくれるはずの出来事は起こったはずなのに、ぼくはちっとも変わってないみたいだった。ぼくは急に悲しくなった。
「そうなんだ。ぼくは、ぼくの口からぽんぽん出る言葉を止められないんだ。悪いと思ってるのに、止められないんだ。それが悔しいんだ。ぼくは何にも変わらないんだ」
 おばさんカンガルーはにっこりと微笑んだ。
「そう思うようになっているなら、あんたは少しずつ、変わってきてるんじゃないかい。ゆっくりだけどさ」
 ぼくはびしょ濡れだったので、瞳の潤ったのがなんなのかわからなかった。ぼくはぼくについて考えて、名案を思いついた、
「おばさん、黒飴をくれないかな」ぼくは言った。「ぼくは大人にならなくちゃいけないんだ。カモノハシさんに会う前に。そのためには、子どもが食べない飴ナンバーワン、黒飴を撃破しておきたいんだ」
 おばさんカンガルーは黙って袋の中をまさぐった。そして、黒い包みに入った黒飴を取り出し、ぼくに渡した。
 ぼくは黒飴を取り出して、空に透かした。黒い。大人のものはみんな黒い。黒飴も、黒豆も、コーヒーも、ビールも、財布も、タバコを吸いすぎた肺も、部屋のトータルコーディネートも。
 ぼくはそれを舌で転がしてやろうと、口に放り込んだ。一転がし、二転がし。
フンコロガシ、とぼくは心でシャウトしていた。
 変な甘さと黒飴をなめているんだという不快感が倍々ゲームでぼくに迫り来て、ぼくはぼくの決意をすぐに忘れた。勢いをつけて黒飴を川に思い切り吐き捨て、口にこびりついた甘さを取り除こうと、地面に唾を繰り返し吐いた。
 ひと段落して振り返ると、おばさんが軽蔑の目でぼくを見ていた。なんだよ、とぼくは思った。やんのかよ。ぼくは目を逸らしたら負けだと思ったので、おばさんをじっと見た。ぼくはなんとも思ってないぞ。唾が一筋、細長く垂れたけどほうっておいた。
「くそまじい」
 小さな声で吐き捨てるようにつぶやいた。
 チャプン。
 突然、背後から水音がして、ぼくは振り返った。おばさんから目を逸らしてしまった。でも、そんなことはどうでもよくなっていた。
「黒飴落としたのおめえかい」
 図鑑で見たままのカモノハシさんのクチバシがひょっこりと出ていた。その先っぽに、黒飴がはさまっていた。




出迎えたカモノハシの歌


   ホイホイ オイラがカモノハシ
   呼ばれて飛び出て水飛沫
   オイラの名前を呼ぶ奴ぁ誰だ
   友達になろう


   卵で生まれたこの体
   踊らにゃ損々 すぐサンセット
   むなしみ溢れる日曜日
   世間に負けるな 二世タレント


   誰かがオイラを探してる
   オイラもそいつが見てみたい
   だからオイラも探してる
   そうしてみんなが生きている
   ほれほれほれほれ


   ホイホイ オイラがカモノハシ
   ラリアで生まれた甲斐性なし
   オイラの悪口言う奴ぁ誰だ
   悪口はやめろよ


   乳で育ったオイラだが
   今ではノンノン 飲んじゃいねえ
   ここを踏ん張れ水曜日
   そこで死ぬなよ ベランダのセミ


   オイラは誰かを探してる
   誰かがオイラを待っている
   時々不安になるけれど
   こうしてみんなが生きている
   そりゃそりゃそりゃそりゃ


 ぼくは声を出すことができなかった。川から飛び出たクチバシの滑らかさに絶句していた。よく見ると、クチバシだけでなく、その付け根にある目がこっちを向いていた。
「おめえ、見ない顔だな」カモノハシさんが言った。
 ぼくは答えられなかった。
「ビーバーだよ。アメリカから来たんだってさ」
 代わりに、おばさんカンガルーが答えるのが後ろから聞こえた。
「するってえと、おめえがあの川の名建築家、ビーバーなのか」
「そうなんだってさ」おばさんカンガルーが言った。
 ぼくはそこは自分で答えたかったので、振り向いておばさんをにらみつけた。何で言っちゃうんだよ。ぼくは自分で答えたかったんだよ。ぼくがビーバーです、って。
「んで、そのビーバーが何しに来たんだよ」
 おばさんは何も言わなかった。カモノハシさんはいつの間にか黒飴を自分でぴちゃぴちゃなめている。ぼくはあたふたしながらなんとか呼吸を整えた。
「サインください」
「サインって、あの、野球選手とかにもらうやつかよ」
「そうです。カモノハシさんのサインが欲しいんです」
「サインぐらいやるけどよ、どこにだよ」
 ぼくは色々と考えたけど、自分の体に刻み付けたかったので、体を横向きにして、しっぽをカモノハシさんの方に差し出した。
「ここにお願いします」
「うわっ」
 カモノハシさんはぼくのしっぽを見て声を出した。ぼくの体中の熱が顔に集まってくるような感じがした。
「こんなボロボロのとこに書けねえよ。お前これ、大丈夫かよ。安いボロいクツベラみてえじゃねえか。うわっ、って言っちゃったよ」
 ぼくの目にまた涙がたまっていた。なんだかぼくは泣いてばかりいるみたいだ。ぼくはリスを恨んだ。
「ごめんなさい。しっぽめちゃくちゃでごめんなさい」
「別にいいけど、とにかく、ここには書けねえよ。木でもひっぺがして、そこに書いてやるよ。おいらの蹴爪でもってよ」
「蹴爪」ぼくは涙を振り切って言った。「あの、毒があるんですよね」
「おめえ、そりゃあるよ。シャレになんないぐらいのがよ。ツーンとくるぜ」
「ツーンと」
「そうさ、わかったら、そのご自慢の歯で木をひっぺがしてこいよ。ってお前その歯、うわっ!」
 ぼくは慌てて歯を隠したけど、遅かった。
「おめえ、前歯一本しかねえじゃん。ビーバーと言えば、前歯二本ボーンだと聞いてんだぜ、こっちは。また、うわっ、って言っちゃったよ」
 ぼくの目から涙がぽっちりこぼれ出たけど、カモノハシさんは気付かないみたいだった。
「ごめんなさい、前歯が一本でごめんなさい」ぼくはぺこぺこした。
「いいよいいよ、まあいいよ。それでもかじれるんだろ。とにかく持ってきな」
「はい」
 ぼくは泣いているのもばれたくなかったので、すぐに駆け出した。茂みに飛び込んで、見えないところで手ごろな木を探した。
 オーストラリアの木は柔らかかった。ぼくはその一番上の樹皮だけをかじりとりながら、ずいぶんみじめな気持ちになっていた。どうして、ぼくはこんな気持ちになっているんだろう。今、ぼくの夢が叶っているというのに、なんであんまり嬉しくないんだろう。そして、それは、おばさんが言ったように、ぼくの夢が無くなっちゃったからじゃないんだ。もっと、いつでもぼくの目の前にあるような、なんでもない理由なんだ。ぼくが巣を飛び出した時と何にも変わらない理由で、ぼくは今、とてもみじめな気持ちなんだ。
 ぼくが戻ると、カモノハシさんは川から上がっていた。全身をあらわにしたカモノハシさんが、おばさんカンガルーと話し込んでいた。大きなカンガルーと比べると、カモノハシさんは凄く小さかった。ぼくより小さかった。50センチぐらいだった。
 ぼくの中で、ぼくの中のカモノハシさんが爆発した。
 ぼくは全力疾走で駆け寄り、カモノハシの横ですっくと立ち上がった。
「小さいなあ、おい!」
 ぼくは思い切り、今まで生きてきた中で一番大きな声で叫んで、くわえていた木の皮を手に持ち直し、思い切り地面に叩きつけた。。
「なんだなんだ」カモノハシが言った。
 ぼくは無視する。
「小さいじゃないか! ぼくより小さいじゃないか! そんではっきりしろよ! 哺乳類なのか爬虫類なのかさ! クチバシついてたり、毒あったり、卵で生まれたり、乳で育ったり、コンセプトがはっきりしないんだよ! 調子に乗るなよ! なんなんだよ! 言葉遣いも悪いし!  全然紳士じゃないし! なんでカッコよくあってくれないんだよ! しっぽボロボロで悪いかよ! 前歯一本で悪いかよ! うわっ、じゃないよ! お前なんか歯ぁ無いじゃないか! ふざけんなよ! ぼくの苦労も、後悔も、お父さんのことも、何にも知らないで! ふざけんなよ!」
 ぼくは怒ったカモノハシに蹴爪でやられて死んでもいいとさえ思っていた。ぼくは夢中で叫んだ。心の中で爆発したカモノハシの破片を一つ一つ拾って、文句を並べ立てた。
「バカ!」
 捨て台詞に一番単純な悪口を選んで、ぼくは走り出した。帰りがてら、おばさんカンガルーの腹にぶつかってやった。
ぼくはいつだって、目の前にあることだけが気に入らなかったのだ。そしてそんなぼくは、どんなに子どもなんだろう。いや、そもそも、ぼくは大人になるということがよくわからないような気がするのだ。何かに対して何かを思う限り、ぼくはずっと、みんなが言うような大人にはなれないような気がした。
 ぼくは右も左もわからない森の中をがむしゃらに走り続けた。




三年後のエンディングテーマ


   『熊を放つ』みたいにして上野動物園に来た若者は
   ぼくを救おうとするだろう
   コタロウと名づけられた傷だらけのビーバーを


   ぼくの誇りはぼくの涙が
   溢れるたびに守られる
   強く強く傷ついても
   頬を伝うなら平気さ


   どこにいたってぼくが生きるのはこの目の前
   世界中にグルメがあったって今このリンゴにチアーズ
   冷たい夜風に見上げる東京の空ただ一つの月は
   全部忘れたまま全部覚えていることの確かさ
   ぼくに思い知らせるだろう


   ハッピーエンドが告げるのは幸せの始まり
   鐘が鳴るように書くべきことの終わりを知れば
   ぼくはただここにいるだけでいい
   それを諦めと呼ぶなら再びぼくの涙が溢れるだろう
   ぼくの威厳のために