「なぜ幸福な王子さまみたいになれないの?」と、ものわかりのよい母親が、月がほしいよと言って泣いている小さな男の子にたずねました。「幸福な王子さまはね、何かがほしいといって泣くなんて、夢にも思わないのよ」
――(ワイルド「幸福な王子」『幸福な王子』西村孝次訳 新潮文庫P8)

孤独はただ一つあるきりで、それは偉大で、容易にない得られないものです。そしてほとんどすべての人にとって、その孤独をできるものならなんらかの、どんなに月並みな安価な付合いとでもいいから交換したい、行きあたりばったりの、どんなにくだらない人とでもいい、どんなに無価値な見かけだけの一致でもいいから、それと交換したいと望むような時期がくるものです……しかしそれこそおそらく孤独が成長する時なのです。
――(リルケ「若き詩人への手紙」『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』高安国世訳 新潮文庫P38)

グレーゴルは現在どうすれば自分の体を動かすことができるのか、それをまだまったく知らなかったし、また、たとい自分がなにかしゃべったところでおそらくは、いや十中の八九はまたもや相手にわかってはもらえまい。そういうことに思いをおよぼすこともなく、グレーゴルはドアの翼板を離れて、そろそろと敷居を越えた。そして支配人はもう階段口のところの手すりに滑稽にも両手でしがみついていた。しかしグレーゴルは、体をささえてくれるものをむなしく求めながら、小さな叫び声をあげて腹這いに倒れた。その瞬間、彼はこの朝はじめて体が楽になるのを感じた。足どもはいまこそはじめて床を踏まえていたし、グレーゴルの意のままになってくれる。
――(カフカ『変身』高橋義孝訳 新潮文庫P30)

現代のロシアでは、誰が尊敬すべき人物なのかわからないというのがぼくの持論です。尊敬すべき人物が分からないというのは、時代が重症にかかっている印ですよ、そうじゃありませんかね。
――(ドストエフスキー『永遠の夫』千種堅訳 新潮文庫 P291)

そればかりか、妻の御産中に、彼にとって異常な事件が起こったのである。それは無神論者である彼が祈りはじめ、しかも祈っている間、神を信じていたのである。だが、その瞬間がすぎてしまうと、その時の気分をあてはめられるどんな場所も彼は自分の生活の中に与えることはできなかった。
彼には、そのときこそ自分は真理を知ったので、今はまちがっている、とは認められなかった。なぜなら、冷静にそれを考えはじめるとなにもかもがばらばらになり崩れてしまうからだった。といってまた、あのときは自分はまちがっていた、と認めることもできなかった、というのもあのときの精神的なふんいきを彼は尊重していたからで、それを自分の弱点と認めては、あの瞬間を汚すことになるからだった。そして彼は苦しい自己分裂の中にありながらも、そこから脱却しようと精神力のすべてを緊張させていたのである。

――(トルストイアンナ・カレーニナ(下)』中村融 岩波文庫 P446)

別けても、彼が絶えず不当と感じていたのは、文学には禁じられている偶然が、人々の間でいくつも重なることによって、あれほど十分に予告された殺人が、行なわれてしまったことだった。
――(ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』野沢文昭訳 新潮文庫 P117)

「分かりました。ぼくは、あなたなら、そう口で言ってくださりさえすれば、それ以上のことはいりません。ほかの人なら、聖書にキスして誓ってもらうでしょうけど、ぼくには、あなたの言葉のほうが信頼できるのですから」
――(マーク・トウェインハックルベリィ・フィンの冒険小島信夫河出書房新社 P240)

「あいつは何も考えない人間だが、それだけにかえってまちがった考えを持つ心配が無い男だ」と、リヴィエールが言ったことがあった。
――(サン・テグジュペリ「夜間飛行」『夜間飛行』堀口大學訳 P33)

真に魅惑的な人間というものは二種類しかいない――つまり、すべてを完全に知りつくしている人間と、まったくなんにも知ってはいない人間だ。
――(オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』福田恒存訳 P167)

ぼくは時々、この地球上に四十億以上の人間がいるということを思い出して、相当猛烈なショックを受けることがある。
ぼくはもともと、そういう「数にヨワイ」ようなところがあるらしいのだ。
たとえば、朝目覚めた時、ぼくはふと、この地球上に(時差はさておいて)四十億以上の、それぞれ異なった目覚めがあることを思いつく。それも、その一人一人が毎朝(そして昼寝なども考えれば、これは大変だが)ちがった目覚め方をしているということ……。

――(庄司薫『ぼくが猫語を話せるわけ』中公文庫 P9)

たとえばバッハだが、あの人はどうなってたんだろう。
バッハの時代というと十七世紀の後半だが、ウェストファリア条約のあとで、ハプスブルグ家が凋落して、群雄割拠でといったことはさておき、とにかくペストとかチフスとかがすぐ荒れ狂った時代になる。デフォーに『ペスト』という小説がある。『ガリヴァー旅行記』のスウィフトもそうだけれど、ちょうど同時代になるわけだ。ニュートンもほぼその頃だが、かよっていたケンブリッジ大学がペストで封鎖されて、それで田舎に帰ってリンゴの木を眺めていた。(で、そしたらリンゴが落っこちてきた)。バッハ自身、二十人も子供を生みながら、そのうち十三人の子供が目の前で次々と死んで、毎年のようにお葬式を出したのだ。しかも、それでまたつくって、また亡くして。二十人の子供をつくったことより、十三人の子供の死をみとった、ということがすごい。奥さんについても、最初の奥さんの死に立会っている。バッハの周辺を考えていったら、その生涯に出会った身近な死は大変なものになるはずだ。ところが、七人も子をなした最初の奥さんが死ぬと、翌年すぐ次の奥さんをもらって、またすぐ十三人の子供をつくり始める。死の観念とか神の観念がちがっていた、なんて言ってもどうも収まらない。不思議でたまらない。でも、それが実は全然不思議じゃなかったことも確からしいのだ。しかし、だからこそそこが不思議でたまらなくなる。

――(同・P159)

――いいわね、タンク。シャム猫ってみんなそっくりなのよ。お前がどんなに肥ってても、そっくりのシール・ポイントはいっぱいいるのよ。だから、お前が死んだら、その日のうちにそっくりのシャムの仔猫を買ってきて、タンクって名前をつけちゃうんだから……。だから死んだらお仕舞いよ。あたしたちが悲しむだろうなんて思ったら大間違い。分った? だからお前永生きしなきゃ駄目なの、ね? 分った?
――(同・P258)