まあ、ひとつ考えてみてください。たとえば、拷問ですがね。この場合は、その苦しみも傷も、すべて肉体的なものですね。ですからそれはかえって心の苦しみをまぎらしてくれるんです。ですから、死んでしまうまで、ただその傷のためにだけ苦しむわけです。でも、いちばん強い痛みというものは、きっと、傷なんかのなかにあるのではなくて、あと一時間たったら、十分たったら、いや、三十秒たったら、いまにも魂が肉体から脱けだして、もう二度と人間ではなくなるんだということを、確実に知る気持ちのなかにあるんですよ。肝心なことはこの確実にという点ですよ。いいですか、頭をこうやって刀の下において、その刀が頭の上へするするとすべってくる音を耳にする四分の一秒こそ、何にもまして恐ろしいんですよ。
――(ドストエフスキー『白痴(上)』木村浩訳 新潮文庫 P47)

お母さん、あなたはついまたひきずられて、辛抱しきれなくなりましたね。ぼくたちの話はいつでもこんなふうに火ぶたがきられて、パッと火の手があがるんですよ。ついいましがた、もううるさく質問もしないし、非難もしないっておっしゃったばかりじゃありませんか? もうよしましょう、ほんとに、よしましょう、そのほうがいいんです、少なくとも、お母さんにはその意志があったんですから……
――(同・P227)

「どうして? いったいどうして、きみはいま私にそう毒づくんだね?」公爵は悲しそうに、しかも熱をこめて言った。「だって、きみにはわかってるじゃないか、きみが考えたことはみんな嘘だってことは。もっとも私にたいするきみの憎しみはいまも消えずにいるだろうとは思ってたがね。それはなぜだかわかるかい? きみは一度この私の生命を取ろうとしたからさ、そのためにきみの憎しみはまだ消えないのさ。しかし、誓って言うけれど、私の知っているのは、あの日、十字架を取りかえっこして兄弟の誓いをたてた、あのパルフョン・ロゴージンだけなんだからね」
――(ドストエフスキー『白痴(下)』木村浩訳 新潮文庫 P94)

「つまり、自首しないってわけさ・あれをかつぎださないってわけさ」
「ええ、どんなことがあっても!」公爵は決めてしまった。「絶対に!」

――(同・P659)

寝ている小牛をさっきからあれほど恐れていたのが、国王ははずかしくてたまらないほどだった。けれどもそれは小牛が怖かったというよりは、あるのかないのかわからない一種奇妙な幽霊のようなものに対する恐怖で、迷信の強かったこの当時の子供としては無理も無い話で、あながち彼ひとりがずばぬけて臆病だったわけではない。
マーク・トウェイン『王子と乞食』村岡花子岩波文庫 P176)

私がもたれている石垣の割れ目からひとりでに生まれて来た子供のように、彼は私の肩に匍い上がって来る。私が石垣の続きだと思っているらしい。なるほど、私はじっとしている。それに、石と同じ色の外套を着ているからである。それにしても、私はちょっと得意である。
――(ルナール「蜥蜴」『博物誌』岸田国士訳 新潮文庫 P112)

そして左右の剣客はばねのようにとびはねながら丁丁発止とわたりあった。が、剣尖は相手の身体に触れなかった。突きを入れるたびに、刃はあやまたず相手のひらめくマントに刺しこまれるが、どういうわけか、それぞれに相手のなにもない側を、すなわちおのれ自身があるはずの側を、はげしく突きたてるのだった。もしも半身の決闘者でなかったら、完全なからだの持ち主だったら、たがいにどれだけ手傷をおっていたかもしれなかった。
――(イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』河島英昭訳 晶文社 P127)

陳情書がどういうものか説明するために、コジモは「一つわれわれもためしてみよう」と言った。学校の学習帳をとり出して、紐で木に下げた。皆はめいめいやって来て、これに不都合なことを書きしるした。漁師たちは魚の値段のこと、ぶどう作りは貢租のこと、羊飼いたちは牧場の境界のこと、木樵たちは国有林のこと、あるいは何かの罪で鞭打ちの仕置きを受けたもの、女のことから貴族を恨んでいるもの、等々、きりがなかった。コジモは、たとえ《陳情書》であるにしても、こんなに悲しいものになっては良くないと考えて、今度は皆にいちばん、気に入るようなことを書いてもらおうと思いついた。ふたたびめいめいやって来て、自分の意見を書きつけたが、今度は何もかもいいことばかりだった。菓子パンのことを書くもの、野菜スープのもの、金髪の女がいいと言うもの、褐色の毛がいいと言うもの、あるいは一日中寝ていたいものがいれば、きのこがあれば一年じゅうでもいいものもいたし、四頭立ての馬車がほしいと言うものもいれば、やぎ一頭で満足なもの、死んだ母にもう一度会いたいものやら、オリンポスの神々を見てみたいものまでいた。要するにこの世のありとあらゆる良いことが、この帳面に書かれた、もしくは描かれた(字の書けないものがたくさんいたから)し、それどころか色つきで描かれた。コジモも書きつけた。ヴィオーラという名前を。数年来、いたるところに書きつけている名前だった。
りっぱな帳面ができあがった。コジモはそれを《陳情幸福帳》と名づけた。しかしこれがいっぱいになったとき、持って行く議会なぞどこにもなかったので、そのまま木に紐でぶら下げられたままになった。雨がふると文字が消えて、腐っていき、そのながめは現在の惨めな暮らしを象徴するようでオンブローザの人たちの心をしめつけ、暴動でも起こしたいという気持ちをみなぎらせるのだった。

――(イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』米川良夫訳 白水Uブックス P268)

怖がる事は無いよ――この島はいつも音で一杯だ、音楽や気持の良い歌の調べが聞こえて来て、それが俺たちを浮き浮きさせてくれる、何ともありはしない、時には数え切れない程の楽器が一度に揺れ動くように鳴り出して、でも、それが耳の傍でかすかに響くだけだ、時には歌声が混じる、それを聴いていると、長いことぐっすり眠った後でも、またぞろ眠くなって来る――そうして、夢を見る、雲が二つに割れて、そこから宝物がどっさり落ちて来そうな気になって、そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いた事もあったっけ。
――(シェイクスピア「あらし」『夏の夜の夢・あらし』福田恒存訳 新潮文庫 P226)

スプーン曲げを信じないことと、作品の中で登場人物に空中遊泳させることとは、僕のなかでなんら矛盾するものではないんだ。小説の場合、言語の構築として確かな手触りが成り立てば、それは現実と等価な世界なんじゃないか。言葉でしか創れない世界……なぜ飛んだか、なぜ飛べたかの説明を、小説の外の世界から借りてくる必要なんかぜんぜんないと思う。
――(安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮社 P149)

たしかにユークリッド空間では、平行線は交わらないのが事実だろう。でも非ユークリッド空間では、むしろ交差するほうが事実になる。人間が昆虫になることは事実上ありえないが、カフカの『変身』の中では事実になるでしょう。『変身』を単なる寓意として読んでも真に理解したことにはならない。あの作品のなかで、カフカは事実として人間が昆虫に変身する世界を創造したわけです。その作品によってはじめて成立可能な世界の創造、それが文学の存在理由だと思う。
――(安部公房 同・P191)

名づけるという行為は、すなわち、幽霊どもを次々と枯尾花におきかえていく作業以外のなにものでもなかったのである。
――(安部公房「枯尾花の時代」『砂漠の思想』講談社文芸文庫 P181)

   月天子


   私はこどものときから
   いろいろな雑誌や新聞で
   幾つもの月の写真を見た
   その表面はでこぼこの火口で覆はれ
   またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
   後そこが大へんつめたいこと
   空気のないことなども習った
   また私は三度かそれの蝕を見た
   地球の影がそこに映って
   滑り去るのをはっきり見た
   次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
   最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
   盛岡測候所の私の友だちは
   ――ミリ径の小さな望遠鏡で
   その天体を見せてくれた
   亦その軌道や運転が
   簡単な公式に従ふことを教へてくれた
   しかもおゝ
   わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
   遂に何等の障りもない
   もしそれ人とは人のからだのことであると
   さういふならば誤りであるやうに
   さりとて人は
   からだと心であるといふならば
   これも誤りであるやうに
   さりとて人は心であるといふならば
   また誤りであるやうに
   しかればわたくしが月を月天子と称するとも
   これは単なる擬人ではない


――(「月天子」「補遺詩篇?」『宮沢賢治全集3』ちくま文庫 P473)