教育実習生の矢野

 俺、教育実習生の矢野。将来の夢は別に無いしそういうのうざいけど、小学校のでも教職免許を取っておけばとりあえず安心だからそういうのを選択してたら母校に実習に来させられて畜生、めんどくせえ、帰ってネットゲームを一日中してえ。こうなったら、覚悟しろ、ネットゲームを妨害された俺の怒り、小学一年生如きに受け止められるかな……?
 という不埒な気持ちで教育現場に、それこそネットゲームの感覚で乗り込んだ矢野。こいつはやばい匂いがぷんぷんしやがるぜ。
「矢野です」という手抜きな自己紹介が終わり、急に「聖徳太子は何をした人ですか」と聞く矢野。
 一年生はほぼ全員手を挙げる。矢野はフリスクを奥歯で強く噛みながら教室中を眺めた。
「うっひょうぜえうぜえ、言っとくけど手ぇ挙げたからって何も無いどころかむしろ俺にちょっと嫌われるよ。って言っても下ろしゃしねえよこいつら! じゃあはいそこの手首に輪ゴムはめてるお前。それあんまカッコ良くないぜ」
 輪ゴムの子は照れ笑いを浮かべ、トレーナーの袖を伸ばして輪ゴムにかぶせながら立ち上がった。
「十人の話をいっぺんに聞いて、全部答えた人です」
「別に、十人の話をいっぺんに聞いて全部答えた人、ではねえよ。それしかしてなかったら、こんな教科書に載ってねえよ」
 矢野はスーツを脱ぎ、それの腕のところを腰にまわして前で結んだ。呆れた顔で腰に手をあてた。
「他、先生に質問のある人いるかな」
 急に質問が変わったので、一年生達は慌てた。聖徳太子は、聖徳太子は、と囁きあった。矢野は外を見ていた。しかし、ややあってこれもまたほとんど全員が手を挙げた。
「じゃあ、ノリの代わりに全部ボンド使いそうなお前」
 全部ボンド使いそうな子は返事をして立ち上がった。
「先生の好きなスポーツは何ですか」
「無いよ」
「ぼくはサッカーが好きで、サッカー部に入ってます」
「おいボンド」と矢野は言った。
「はい」とボンド。
「俺は中学高校と、サッカー部の奴にいじめられたんだよ。六年間だよ。何個メガネ替えたかわかんねぇよ。メガネを隠すんだよ。サッカー部は隠すんだよ。時々割るんだよ。担任がサッカー部の顧問なんだよ。何にも言わねえんだよ。しかも俺は、コンタクトと相性が悪いんだよ、何回やっても何回やってもゴロゴロゴロゴロすんだよ。挙句の果てに、コンタクトレンズ屋の奴が、もうあんたはメガネかけてろよ、って言うんだよ。なんだよその言い方。そんな言い方する必要あんのかよ。なあボンド、答えろよ。そんな言い方する必要あんのかよ」
「ありません」
「そうだよ。ねえよ」と矢野は軽くうなずいた。ちょっと間があった。「俺は客だぞ!!」
 矢野が今日一番大きな声を出したので、一年生達はビクッと体を震わせた。
「だから、俺はよ、メガネメガネ、選択肢がメガネしかねえんだよ。しかもそのメガネが隠されるんだよ。黒板何にも見えねえんだよ。見えなかったら困るだろ、お前困るだろ。もしそういう俺の歴史が全部わかってたら、お前、ボンド。おいボンド。ボンドォ!」と矢野はメガネを外して叫んだ。「俺に、サッカー部のこととか言うか?」
「言いません」
「じゃあ聖徳太子のこともとやかく言うんじゃねえよ!」と矢野は輪ゴムをにらみつけた。
 聖徳太子が戻ってきたので、一年生達はなんとなく納得したような気持ちがしたが、輪ゴムとしては少々つらかった。
「他、質問ある人」と矢野は言い、チョークを手にとって、それを手でこねくり始めた。あっという間に矢野の手が黄色くなった。
 そのあたりで、この先生はPTAで問題になると子供ながらに感じ取った一年生達は黙り込んでしまった。矢野は黒板消しクリーナーを凄いスピードでオンにしたりオフにしたりし始めた。
 オマセさんのアカネちゃんはなんとしても聞きたいことがあったので、決心したように立ち上がった。椅子が動く音が響き、矢野がチラリと振り返った。
「先生は彼女はいますか」
 偉いもんで、その直前から黒板消しクリーナーがずっとオンになり、同時にそれにおおいかぶさった矢野には何も聞こえないらしかった。