走れメロス、食べろ耕作、なんでもいい方に考えろ由美子

 路行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでいく太陽の、十倍も早く走った。
 耕作は食べた。バランス良く、それでいて手当たり次第に、あらゆる物へフォークを刺し込み、海老や蟹は手づかみで口に運んだ。礼儀作法を遵守しながらフォークやナイフを操る叔父の夫婦は、耕作に冷たい視線を送り、両親はもはや注意も躊躇われたか、恥ずかしそうに、俯いている。その中で、耕作は食べた。なりふりかまわず、挙句の果てには、ナイフを放り出し、とにかく食べた。これを逃したら、異国の料理なんぞ、いつ食べられるか知れたものではない。ああ、父よ、母よ、祖父母よ、叔父よ、叔母よ、きっとお前らが悪いのだ。貧乏が悪いのだ。貧乏が、俺を、ここまでいやしくさせたのだ。耕作は、胸の張り裂ける思いで、咀嚼した。食べるよりほかはないと、血の涙を流し、耕作は食べた。
 由美子は落胆していた。理由など誰にわかろう。母は夕食もとらない娘の様子に戸惑い、遅く帰ってきた父に相談した。父は着替えもせず、急な階段を上り、娘の部屋のドアを優しくノックした。由美子は答えず、父もそれ以上、ドアを叩くことはなかった。
「何があったんだ、由美子。とにかく元気を出せ」父は威厳を持った低い声で言った。
「この悲しみは、誰にもわからない」由美子のうめくような声が、ドア越しに聞こえた。
 父の説得は続いた。熱弁する父の体は、熱を帯び、汗が噴出し、たまらずに、背広を脱いで階下に放り投げた。そしてまた、同じように喋り続けた。娘を思う情愛が、言霊となって木造の壁に響き渡った。汲めども尽きぬ愛の働いたその声は、徐々にではあるが、拠り所を失っていた由美子を打ち、なんと、終には、かたく閉ざされていたドアも開かせた。ドアの向こうの気配が結実し、ノブが回り、次の瞬間、感動的な涼しい風が、娘の笑顔とともに吹き込んだ。父は、今は、ほとんど全裸体であった。その火照った体が急激に冷めていった。やったのだ。父は喜びに満ちた。子を思う、愛と誠の力を思い知らせた今、風態などはどうでもよい。呼吸も荒く、安堵のためか、二度、三度、口から血も噴き出た。しかし、何を恥ずかしがることがあろう。父は、ともあれ、やったのだ。
「なんでもいい方に考えろ、由美子。それだけで全然違うよ」父の声は、今度はじかに、父の言葉が由美子の耳へ飛び込んだ。
 由美子は、なんでもいい方に考えた。落ち込む落ち込まぬは問題ではない。なんでもいい方に考えるのだ。そのために、どんなに深い落胆にも消え尽くさぬ最後の力を振り絞るのだ。そして父を悲しませぬために、ああ、きっと、そのためだけに、なんでもいい方に考えるのだ。それだけで全然違う、とこの小さな胸に誓うのだ。信じているから思うのだ。愛の偉大を痛感した今、何を疑う理由があろう。