九月の第二土曜日

●ウイングの意味

「今日こそ、お前が、俺の舐めてきた辛酸の味を知るときだ。その辛酸は、近いところで言うと、鉄みたいな味だ」
 言っちゃったよ、味言っちゃったよ。6年2組の相沢ソウイチロウの宣言に対して、6年1組の畑中トオルはマイブームの内心ツッコミを入れた。二人は入場門のところで待機してしゃがんでいた。無理だよ、お前は僕に勝てないよ。トオルはそう言い返して相沢の鼻っ柱を二つにへし折って、割り箸みたいに食べ終わった弁当の箱に入れて捨てるとき楽なようにしてやろうと思ったが、弁当と相沢の鼻は全然関係ないような気がして止めた。こんなところでも、自分の中の父子家庭的な生活の知恵が出てきてしまうのがトオルは悲しい。お昼の弁当もコンビニ弁当だった。
「望むところだよ、相沢。僕をしびれさせてくれよ」
 言い終わった途端に先導の先生が立ち上がり、笛をピッピいわせながら走り出した。ついてゆく生徒達。運動会メーンイベント、組対抗リレーの始まりだ。無意味に見せ付けるためだけにトラックを一周半してから、選ばれし者達は所定の位置についた。前日練習が奏功したかたちだ。
 とりすぎなくらいたっぷり間をとって父兄の興奮をくすぐってから、四人の第一走者がようやくスタートラインにつくと、静寂が訪れた。
「ようい」
 パーン。
 飛び出した。あいつら、勝利に向かって、駆け出しやがった。うちの子は出てないであそこで椅子の上に立ち上がって興奮気味に応援してるだけだけど、とにかくみんな頑張れ! 父兄の様々な思いは歓声となってトラックを埋め尽くし、走者達に切り裂かれた。
 しかし全チームが三人目の走者にバトンを渡したところで、父兄と小学生の視線はある男子に釘付けになった。
「なんだ! 赤組の赤チームの鉢巻をしたアンカーの子は!」
 それは相沢のことだった。隣で見ているトオルは勿論、その異変に気づいていた。
「相沢、それは……」
「これか。これは、ウイングだ。空気抵抗を少なくするんだ」
 相沢はランドセルを改造して作ったスポーツカーのうしろにくっついているようなウイングを背負っていた。赤いウイングだった。
「そうだったのか。夏休みの自由研究の工作、一体なんのためにこんなものとみんな不思議に思っていたけど、そうだったのか。夏休み明け少ししてからやってくる運動神経いい子祭り、運動会に照準を合わせていたのか」
「そうさ。トオル、俺は妹のランドセルを一個ダメにしてでもお前に勝つ」
 歓声の中に、それに対する疑問の声、否定の声、肯定の声が混じった。
「ウイングをつけるなんて、反則じゃないのか!」
「赤組卑怯だぞー!」
「いや、あれは自分で作ったやつだからいいんだよ! 悟空の筋斗雲はダメでも、なんかあの恐竜みたいな奴の吐き出すガムみたいなのは反則じゃなかったのを忘れたのかよ! 運動会はある意味、天下一武道会だろ!」
「その論理を適用するならむしろダメだろ!」
 その喧騒がまるで聞こえないほどもはや集中しているトオルは相沢をじっと見た。目が本気だ。よし、いいだろう相沢。それでこいよ。他のアンカー二人も、手首と足首を高速でひねりながら「面白くなりそうだぜ相沢」「かっこいいなそれ」と言った。
 トオルや他のアンカー達が容認しているのを見ると、外野も何か言うわけにはいかなかった。それはそれとしても、今現在一生懸命走ってる子がいるんだからそっちに戻ろう。なんていい勝負なんだ。これほど拮抗した組対抗リレーは見たことが無い。抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り返した上で、ほとんど差が無いときてやがる。こりゃ、ベスト・オブ・運動会かもしんねえ。
 いよいよ、アンカーのひとつ前の走者達にバトンが渡った。狂熱の中、相沢のチームが少しリードして、他はほぼ団子になって小学校で一番速い子達、アンカーのところへ迫ってくる。
 トオルは思った。これなら、この中で一番足の速い僕が勝てる。なぜなら、あのウイングは絶対意味無いから。相沢、お前はなぜそんな無用の長物に頼ってしまったんだよっしゃこの勝負もらったぞってその時だった。相沢が素早い動きでウイングを肩から外して、同じチームの走り終わっていた四年生に投げた。
「なにぃ!」
 校庭全体から雄叫びがあがった。トオルは自分の平常心が千々に乱されるのを強烈に感じた。完全にしてやられた。相沢は全てわかっていたんだ。
 相沢が、バトンを受け取って飛び出してゆく。
 すぐにトオルも飛び出す。相沢の背中が遠く見える。あせっているのを感じる。ちくしょう、やられた、まずい、まずい。
 その時、第一カーブにさしかかるトオルの目に、お父さんの姿が映った。
父さん! そんな、会社はどうしたんだよ、今日は会社じゃなかったのかよ。大事な朝一会議だったんじゃないのかよ。父さん。よし、ちくしょうめ、こうなったら父さんのためにも絶対勝ってやる。相沢の奴め、卑怯な作戦使いやがってこの野郎。絶対ぶち抜いて恥をかかしてやるからな。
 そんな心を見透かしたように、お父さんがジャングルジムの上から叫んだ。腕を組んで、仁王立ちのポーズだ。
「とらわれるな! 平常心だ!」
 トオルは我に返った。そうだ。僕は何を興奮していたんだ。それこそ相沢の作戦だったんじゃないか。まったく、僕はまだまだひよっこだ。て言うか父さんなんでジャングルジムの上なんだよ。トオルは、ツッコミをいれられるぐらいには冷静さを取り戻していた。
 ありがとう、父さん。
 トオルは素晴らしいフォームで、ぐんぐんと加速を始めた。その外を、相沢のウイングを装着した青い鉢巻の少年が風のように追い抜いていった。トオルの口中に鉄の味がした。



●兄妹の契り

「いいよ、私のランドセル使って」
 相沢ナツコは八月二十日の登校日に学校から帰ってくると、兄のソウイチロウのこの夏休みで三度目、三日連続となる頼みに対してそう言った。
「ホントかよナツコ!」
「うん、お母さんには私から言っておくから」
 ナツコはわかっていた。兄ちゃん、マジだわ。今回ばかりはマジだわ。だって兄ちゃん、私にランドセルをくれって頼む時、マリオカートレインボーロードをドンキーかクッパでプレイする時と同じ目をしていた。兄の本気を、ナツコはその時しか見たことが無かった。
「お前、俺が何に使うかちゃんとわかって言ってるのかよ」
「うん、ウイングでしょう」
「そう、ウイングさ。でも、使わないんだぜ。夏休みの自由工作としては使うけど、ウイングとしては使わないんだぜ。カモフラージュのためだけなんだ」
「いいよ。私、諸葛亮みたいな策士の兄ちゃんが欲しかったの」
 それを聞いて兄は、明らかに感動していた。俺はいい妹をもった的着想。
「ありがとう、ナツコ。俺は絶対トオルに勝つからな。それとお前、まだ小四でしかも女子なんだから、三国志はほどほどにしておけよ」
 それは余計なお世話よ。だいたい私がオーケーしたのだって、三顧の礼に倣ったからよ。ナツコはお気に入りの劉備玄徳キーホルダーを外すと、三年ちょっと使ったランドセルを兄に放り投げた。
 そんなことが昨日のことのように思い出される中、ナツコは兄がランドセルを改造したウイングを背負って位置につくのを見ていた。いよいよ、始まるのね。ナツコの心は、軽佻とされている曹操とは対照的に穏やかだった。
 兄が赤いウイングをナツコと同じクラスの橋本ユウスケに放り投げた。畑中トオルの慌てふためく顔が見える。兄がバトンを受け取って走り出す。心なしかもたついているように見える畑中トオル。やがて、カーブを曲がって近づいてくる兄を見て、ナツコは勝利を確信した。東南の風は吹いたのね。しかし次の瞬間、自分のランドセルを背負った知らない六年生がその東南の風の抵抗をまったく受けずに目の前を通過するのを見て、その思いは水泡に帰した。彼が同じ赤組だとしても、それが何の慰めになるだろう。しかし、そうは思いながらも、素晴らしい速度でトラックを駆け抜けてゆく赤兎馬に見とれてしまうナツコなのだった。どんどん近づいてくる。兄が抜かされる。
「私のランドセル!」
 かなり改造されたそれが目の前を通過した時、ナツコは思わず叫んでいた。



●白石ナオミのIRA☆IRA

 ここは5年2組。今は学級会。あたしだって、校庭につくったでかい人文字を空から撮った写真の下敷きが出来上がるのを楽しみに待っていたわけじゃなかったわ。でも、先生がそれを配り始めた時、あたしの少女マンガの影響でいっぱいの心が、突然、白馬に乗った王子様が優雅にやってきて「さあナオミ、僕とワンオンワンをしよう」ってバスケットボールを放ってくれた時みたいに高鳴りだしたの。一応あたし、女バスやってるのよ。レッグスルーをやった時限定で、「レッグスルーのナオミ」って呼ばれてるわ。
 あたし待ったわ。下敷きの束が一つずつ減りながら、最後はたった一枚になってあたしのとこにやってくるのを。町田先生ったらテスト用紙の習慣で裏向きに配るもんだから(ま、そこが町田先生のかわいいところなんだけど)、あたしには下敷きの裏の真っ白が白馬に見えてしょうがなかった。でも、こんな僅かな時間だって待ち遠しいったらありゃしない。ほんと全然来やしないんだから。ちょっと優雅が過ぎるんじゃないかしら。巧遅は拙速に如かずって言うじゃないの。つまり、白馬がミドリマキバオーだったらよかったっていう女子らしからぬことを、あたし思っちゃったのよ。まあ率直に言うと、見るのは後ろの人にまわしてからにしなさいよ、っていういつものアレよね。その時、あたしの前の吉岡シンが言ったわ。
「先生、一枚足りません」
 失礼しちゃうわ。ていうか、吉岡は自分のをあたしに渡すべきだと思わない? あたし女子なんだし。そういう気配りの出来る子が学級委員に選ばれるのよ。吉岡あなたが何係りなのかあたし知らないけど、どうせあってもなくてもいいような係りなんでしょ。あたしは先生がその後言った通り、隣の列が余ったりするのを待ったわ。
 でも、白馬の王子様は余らなかったの。その頃には、白馬の王子様はどこ見たっていなくて、ただの校庭につくったでかい人文字を空撮した写真の下敷きがみんなの手の中にあるだけだったわ。みんな、自分がどこにいるか夢中で探してる。「オレ多分これだ!」なんて言ってはしゃいでる。嗚呼、あたしもすっごくあたしを探したい。なんたって、あたしは「小」のハネの最後のとこにいたんだから。「これ絶対自分!」って自信を持って言えるのは、たぶんこのクラスであたししかいないのに、この白石ナオミしかいないのに、そのあたしだけ下敷きが無いなんてどういうことなのキーー!
「せんせー、オレ、事務係りだからとってくるよ」
 そう言ったのはあたしの前にいる、そう、吉岡だった。吉岡の奴、すぐ事務室へ走っていったわ。あたしは思った。だから吉岡あんたの下敷きあたしによこしてから取りに行きなさいよって。なんでそういう機転きかないのよ、だからあんた事務係りなのよこの坊主頭って。



●騎馬戦

「大山を狙え!」
 四年生のピストル係が鳴らした音を皮切りに、一列になっていたうちの五騎が先陣を切ろうと駆け出していた。ここは宇治川かよ、という高校で日本史を選択していた父兄の心の声が校庭いっぱいに自己満足的に浮かんだ。
 五騎のうちの一つには、5年2組の佐々岡ショウタが乗っていた。
 白組五・六年生混合チームは綿密な打ち合わせの結果、身長180センチの大山キョウゾウただ一人に狙いをしぼった。
「大丈夫なのか、野本。果たして俺達に大山の帽子がとれるのか。俺達は小学校高学年の平均身長である150センチそこらなんだぜ」ショウタは言った。
「大丈夫、僕の作戦を信じてくれ。六年生の皆さんも、五年生の僕を信じてください。中学受験頑張ってください」
 野本は学年一の秀才だ、信じよう。先輩へのエールも忘れない野本の如才無さを見せ付けられて、六年生もそんな気持ちを抱かずにはいられなかった。中学受験しない六年生もそう思った。
 だから、五騎に選ばれたショウタ達に迷いは無かった。野本みたいに頭がよくない俺らは指示に従って大山に向かって一直線しておけばいいんだ。
 野本の作戦はこうだ。騎馬が五騎、大山を半円状に取り囲む。帽子をいくつか取られるのは仕方ない。そこではとにかく時間を稼ぐことに全力を注いでくれということだった。日本人らしいすばしっこさで、日本人らしい騎馬戦をしてくれ。スピードで対抗するんだ。「でも、それじゃあいつまでたっても帽子は取れないじゃないか」「その間に、僕の乗る騎馬が回り込みます。大山が、皆さんの帽子を取ろうとしてかがむ瞬間、後ろか斜め後ろか、フレキシブルに対応してそのへんから僕が帽子を取ります」フレキシブルってなんだ。そこにいる全員が思っても言い出せなかった。誰も恥をかかないことで、逆に全員が恥をかいた。「オーケーだ」みんな口々に言った。家帰ってお父さんに聞こう。
 実際に大山の前へ行くと、やはりでかい。何を食っているんだという疑問がまず頭に浮かぶ。そんな一瞬のうちに、大山は一人の帽子を摘み上げた。
「うわああああ!」
 帽子をとられたのは6年1組の萩村ハヤトだった。
「萩村先輩!」ショウタが叫ぶ。
「皆、俺はもう駄目だ。スピードだ。スピードだぞ!」
 萩村と騎馬隊は、騎馬を崩して去っていった。悔しそうな顔。でも悲しんでいる暇は無い。人間山脈が俺らの帽子を虎視眈々と狙っているんだ。大山は容赦なくその巨大な手を伸ばしてくる。かわせ、かわすんだ。
「いいぞ、いいぞ!」
「ステップ踏め、ステップ!」
「ひ、ひええええ!」
 その時、六年生の貧ジャクノスケの頭が、帽子ごと掴みあげられた。空中にぶら下がっている。それを見ていた大体の小学生男子が、ピッコロ大魔王につかまれた天津飯を脳裏に浮かべた。
「貧先輩! ジャクノスケせんぱーい!」
 貧先輩もやられた。くそ、貧先輩、どうして。どうして貧先輩は精鋭に選ばれたんだ。
 大山はジャクノスケを帽子から振り払って数メートル吹っ飛ばすと、もう片方の手で五年生の志田カズマの帽子を掠め取った。
「しまった!」
 志田もか! 背筋力が凄い志田でも駄目か。やはり背筋力は関係ないのか。
 大山は次のターゲットをショウタに定めたようだった。大きな手をショウタの頭上に広げ、運動会日和の秋空の中、赤い帽子に影が落とされる。それは絶望の影だ。あと二騎。急げ、急いでくれ、野本。
 ショウタは上半身の動きだけで大山を惑わそうとする。騎馬も疲労が限界まできているのだ。しかし、努力もむなしく大山の手が近づく。まずい。大山の腕を取るが、ショウタの力で止まるはずがない。これまでか。大山がショウタの頭を帽子ごと掴んだ。俺も貧先輩のように、天津飯状態で父兄に恥をさらされるのか。そんなのいやだ。
 ショウタは自分の体が騎馬を離れて空中に浮かんだ時、叫ばずにいられなかった。もともと、思いは口に出すほうだ。
「野本!」
 その時、大山の背後から叫び声が響いた。
「大山、こっちだ!」
 大山は、巨体に見合わぬ鋭敏な動きで振り返る。そこには、身長183センチの野本が待ち構えていた。



●綱引き

 もう四年生と五年生にもなって、こんなにくそ真面目に綱を引っ張り合う俺たち。より引っ張ったのは俺たちだ! 最終的にそんな勝鬨をあげるためにこんなことやってるんだから、やっぱり俺みたいに白けちゃうのが出てくるのはしょうがないと思わないか。いくら赤組とはいえ(おっ俺うまいこと言った)。なんせ、俺にとっては最後のリレーの方が大事なんだ。相沢先輩のウイング大作戦に加担している俺には、やるべきことが沢山ある。無駄な力なんか使わずにさっさと負けちまった方が得策ってもんだ。組の点数も、最後のリレーで勝てば逆転できるぐらいにした方がいい。大体、綱引きじゃ目立つもんも目立てない。
 そう思った4年2組の橋本ユウスケは、全力で引っ張っている演技を全力でしながら、体中の力を自分自身死んだイカと勘違いするほどまで抜いた。まだ綱引きが始まって十秒ぐらいなのにごっそり抜いた。しかし、さっきまで持ち前の運動神経でかなり綱を引くことに貢献していたはずのユウスケのパワーがゼロになっても、綱は動かなかった。
 なんてこった。向こうチームにも、死んだイカが同時に出現しやがった。ユウスケは白組の方を見た。
 いたいたいたいやがった! 見ろよちょうど真ん中へんにいる三船の奴を。死んだウザギのような目をして、死んだナナフシみたいな体をして、セミの抜け殻みたいに綱にひっついてやがる。そして死んだイカのオーラを放ってやがる。
 本当に、最初っから最後まで白けてるやつってのはいるもんだ。ユウスケの中の闘争心、見てやがれ根性、お前のハートに火をつけてやんよマインドがたぎる。ユウスケは本気を出した。どうせウイング大作戦ったってウイングを受け取るだけだ。
 しかし、渾身の力で引っ張っても、綱はピクリとも動かなかった。なぜだ。まさか三船も力を入れやがったか。ユウスケはもう一度三船を見た。相変わらず全体的に死んだ生物たちで形容できそうな佇まいだ。じゃあ、なぜ。そんなユウスケの視界の奥に、巨大な人物がうつった。
 お、大山先輩。それは五年の大山キョウゾウだった。身長180センチ。将来の夢、力士。
「みんながんばれもう一息だ! オーエス! オーエス!」
 俺の背後から聞こえるこの声は、野本先輩だ。野本ナオユキ、身長183センチ。好きな食べ物、エビピラフ。
 そういうことかよ。
 綱引きはほとんど二人の一騎打ちのようにも見えた。他の四年生五年生が加える力は屁みたいなものに見えなくもなかった。ユウスケは力を抜いてそんなことを思った。
 180センチと183センチとその他の小学生が本気を出して引っ張り合っているのはいいのだが、そのうちに綱がギシギシと悲鳴を上げはじめた。切れちゃう、まじで切れちゃうよ。父兄と見てる側の小学生達は思う。それでも勝つために綱を引っ張り合う。
 オーエス! オーエス! オーエス!
野太い二つの声。綱はもうなんかちょうど真ん中のライン上のところが見た目にも細くなってきて父兄が叫ぶ「やばいやばいやばいやばいんじゃないの!」ブツッ!
 やりやがった。やっちまいやがったよ先輩方。ユウスケは綱の切れた反動で宙を舞いながら思った。興奮した観客の叫び声が地鳴りのように響く。「みんな!」と叫ぶ巨大優等生野本の声がはっきりと聞こえる。次の瞬間、空に跳ね上げられていい恥をかいたほとんど全ての四・五年生がボタボタと校庭に落下した。
 一部始終を目撃した父兄の一人が叫んだ。
「みんな見ろ、あの子を見ろ! あの衝撃にも関わらず、綱を離さない男子を!」
「信じられねえ!」
「すげえポテンシャルだ!」
「死んだナナフシみたいな体して!」
 やんややんやの喝采が、大山と野本の他に唯一綱を握っている一人の四年生に贈られた。地面にたたきつけられた小学生達もその声に反応し、起き上がってそちらを見た。ユウスケも、大山の先で綱を握ってぼんやりと立ったままみんなの視線を独り占めしている四年生に目をやった。
 なっ、三船だと。あの野郎、なんてやつだ。すげえポテンシャルだ。
 無意識に、どっかの父兄が言った言葉で思ってしまうユウスケであった。



●窓際最後方のあいつ


織田信長  正正
豊臣秀吉  正一
徳川家康  一


 これは決して、かの有名なホトトギスメンバーの中で誰をいっちゃん尊敬しているかというアンケートの得票数ではない。ただただ「尊敬する人アンケート」なのだ。候補はほとんど無限にいて、それを言うことで選択肢を他人に提供することも出来る。
窓際最後方という自分的ベスト席に陣取る4年1組、三船シンイチは別に尊敬なんかしていない戦国武将の三つ巴の争いを不思議に思っていた。小学四年生という時期、尊敬する人は大体そういうものに落ち着いてしまうことをシンイチはまだ知らなかった。
なぜ僕らは、この三人の中のいずれかを尊敬しなければならないのだろうか。シンイチはクラスでも真ん中ちょっと下ぐらいの成績を生み出す頭脳で考えていた。
 シンイチが知恵熱を出しそうになっている間も、票数は伸びてゆく。「三連続で信長かよ!」というちょっとした偶然に、教室は大いに沸いた。小学四年生にありがちの盛り上がりである。「秀吉負けるな!」と誰かが言えば、秀吉の票数が伸びた。これも小学四年生にありがちである。それから、もはや家康は完全に脱落していた。確かに、この中で誰となると、浅い知識で比べた場合、家康はあまり魅力的でないというか言ってしまうとどんくさいのだ。教室はもはや、織田信長と豊臣秀吉以外の名前は口外してはならない雰囲気でいっぱいだった。
どうしてこんなことになっているのか。シンイチは普段からあまり喋らない子だった。この異様な盛り上がりの中でも一言も発さずに考え続けることが出来る子だった。なんとかこの状況を打ち破らなければならない。そうじゃないと、一生、織田信長や豊臣秀吉徳川家康を尊敬していかなければならなくなってしまう。そんなのいやだ。
 いよいよ最後、シンイチの番がきた。シンイチは膝の裏で椅子を背後に押し出すと同時に立ち上がった。皆が椅子の背凭れにつかまりながら振り返ってこっちを見ている。いかにも小学四年生らしい後ろを見るスタイルでこっちを見ている。
皆はシンイチは徳川家康と言うに違いないと思っていた。なぜなら、あそこの席に座る成績のそんなに良くないそんなに喋らない奴はアウトローと相場が決まっているからだ。得票数の少ないのを選ぶのがアウトローだ。三船は家康だろ多分、そんな囁きもあった。シンイチが口を開いた。
「お父さんです」
 徳川家康しか想定に無かった教室がざわついた。その中でシンイチは静かに座った。黒板を見て、皆の予定調和を打ち破ったことのほかに、別の喜びが湧き上がってくるのを感じた。そこには最終結果が書かれていた。


織田信長  正正正T
豊臣秀吉  正正正
徳川家康  正一
お父さん  一


 シンイチは、少なからず親孝行をしたような爽やかな気持ちになっていたのだ。土曜日も会社に行くお父さんに感謝するようなあたたかな気持ちになっていたのだ。
でも、今回の一件が今まで気づかないうちに築き上げられていたアウトローのイメージすらも打ち破っていようとは、シンイチは夢にも思わなかった。
 三船のやつ、ただのアウトローじゃないのかも知れない。みんなは椅子の背もたれを握っていた手を離して前を向きながら思った。アウトローと家族愛は相性が悪いのだ。



●夏休み自由工作 episode3

「相沢、これ、お前、めっちゃかっこいいよぉ」
 6年2組の山田カズキは、夏休みの自由工作展示スペースの中でも群を抜いて場所をとる相沢ソウイチロウの真っ赤な「ウイング」を見て言った。ほんとめっちゃかっこいいじゃねえかよぉ」
「そうでもないよ」相沢が言った。
「いやいやいや。めっちゃかっこいいよぉ。クールだよ。メンソールだな。まあ、トオルの『手作り、セロハンテープをカットするための台』もシュールでいいけどさぁ。ハハ、なんでこんなの作るんだよ。いやでも、ほんとかっちょいいよウイング。めっちゃ光ってるしよぉ」
 ランドセルのベロンと開くところを折りたたんで作ったウイング部分は、すばらしい光沢で蛍光灯の明りを反射していた。すげえ、ビッカビカに光ってるよ、これぇ。
「塗ったんだ、ニスを」
相沢は倒置法で言った。
「はー、どおりでなぁ」
 カズキはそこに指を滑らせた。その感触が、カズキの中のある感情を刺激する。背負ってみてぇ。
「なあ、相沢、これ、背負うんだろぉ」
「まあ」
「背負っていいかな」
「ダメだよ」
「なんで」
「それは、作品なんだよ。背負うものだけど、それ以上に見るものなんだ。別に背負うために作ったんじゃない」
 その時、ガラッと教室のドアが開いた。小学校らしさを存分に発揮しているすべりの悪いドアが開いたのだ。そこには、一人の男がいた。それは小学六年生だった。
「トオル」
 カズキが言ったように、そう、それは畑中トオルだった。学校一足が速いということだけでヒーローになれる小学校で、学校一足が速い六年生だ。トオルは五年生の時から学校一足が速かったので、人一倍、ヒーローだった。
「ところで、トオル、お前これ、なんだよぉ。夏休みの工作にセロハンテープの台かよぉ。すげえシュール。絶妙に外してきたなぁ」
「実用性を重視したんだ。うちのセロハンテープは、セロハンテープのあの丸いのにそのままギザギザの金属をつけて切る方式だったんだけど、それじゃ不便だから俺が作ることにしたんだ」
「えらいなあ。あ、ところでこれ見ろよぉ、相沢のウイング、凄いよなぁ。トオルもそう思うだろ、ニス塗ってんだってよぉ。だから異常に光ってんだな。見たところ、これが一番だよなぁ。菅谷の『電流イライラ棒』はちょっと古いし狙いすぎだし」
 トオルは、それをチラリと見て言った。 
「力入ってるよな、それ。みんな、なんのためにそんなもの作ったんだよって言ってたけど」
「ただの自由工作だよ。意味なんて無い」
「そうか。僕の『手作り、セロハンテープをカットするための台』とは方向性が真逆をいってるんだな」
「そうだ」
「そのランドセル、妹のじゃないのか」
「そうだよ」
「いいのか」
「いいんだ」
「だったらいいけどさ。じゃ、僕のクラスは次、図工だからもう行くよ」
 トオルは、いかにも小学生の休み時間終盤らしい台詞で部屋を出て行った。相沢は、神妙な顔をして開けっ放しのドアを見つめている。
 なんなんだよぉ、只ならぬこの雰囲気はよぉ。大体、トオルは何しにきたんだよ。にしても、やっぱウイング、すげえ、かっちょいいなぁ。妹のだってのには驚いたけど、それとは関係なく背負いてぇ、抜群に背負いてえよぉ。ほんとかっけえ。それに比べてその隣にある俺のはなんだよ、「画用紙に海で拾った貝を貼り付けて顔をつくってみました」はよぉ。



●騎馬戦前

「なあ野本、なんで俺たちがメンバーなんだ」
 赤い帽子がやけに綺麗な貧ジャクノスケは、騎馬戦が始まる直前、とりあえず集まって思い思いにストレッチや談笑をする五年生六年生でごった返す入場門付近で、野本ナオユキに訊いた。
「どういうことですか」
「いや、大山を狙うのは、もう少し運動神経のいい奴らにした方がいいんじゃないかと思ったんだよ」
「そのことですか」
 野本は、耳元で風にそよぐ万国旗のイタリアとドイツの部分を邪魔そうに払いのけて靴紐を結ぶ振りをしてしゃがんだ。他の小学生に聞き取られないためだ。
「確かに、貧先輩も含めてあの五人はあまり騎馬戦で使える人ではありません。体重が軽いという理由で上になっているだけです。志田は背筋が凄いけど、それだけです。それも、決して背筋力が凄いのでなく、志田はあの背筋力測定器具を引っ張るのが得意なだけなんです。背筋は人より多少あるぐらいなんです。そういう人っているんですよ。引っ張り方がおかしいんです。完全に体重を後ろに乗せてるんです。吉岡だって、体育係になるのを皆に反対されて事務係になったぐらいですからね。佐々岡も、これといって秀でた部分はありません」
 ダメダメオールスターズじゃないか、とジャクノスケは思った。
「それで、どうしてなんだ。どうしてダメダメオールスターズになってしまったんだ」
 ジャクノスケは考えたことはすぐ言ってしまう性格だった。ダメダメオールスターズ? と野本は思った。しかし言及せず、靴紐を結びながら答えた。
「ええ。例えば、運動神経のいい相沢先輩や山田先輩を入れてしまったら、僕たちは勝負を捨てたようなもんじゃないですか。と言うか、貧先輩、そんなことは少し考えたらわかることじゃありませんか?」
 ジャクノスケは、そんなこと言われても全然わからなかった。そう、貧ジャクノスケは、もやしっ子なだけでないばかりか頭もあまりよくなかったのだ。天は一物も与えなかった。ただ、貧ジャクノスケという存在を与えたのだ。
「わかんないよ、野本」
「白組には、大山もいるし、この学校で一番運動神経のいい畑中先輩がいます。うちにも相沢先輩や山田先輩、武藤は休みですけど、橋本などの戦力がいます。でも、向こうにもそれと同じくらいの駒は畑中先輩とは別にいます。そういう運動神経のいい、リレーの選手に選ばれるような男子もまた敵なんですよ。相沢先輩や橋本を大山にぶつけてしまったらどうなりますか。大山に勝てたとしても、他の場面でうちの騎馬が畑中先輩にやられてしまうでしょう。今回の作戦は、大山からくる被害を最小に抑えるためだけなんです。厄介なのは、大山と畑中先輩が近くで動いていることですからね。大山を一所に釘付けにしておくのが作戦の肝です。ま、こういうことが出来るのも、うちのほうが全体的な戦力が上だからなんですけどね」
 ジャクノスケは考えた。今、野本が言ったことを、一生懸命考えた。そのことしか考えなかった。ジャクノスケの脳の中に住む考える小人達が、今入ってきたばかりの言葉を分解してやろうと突撃してゆく。
 しばらく間があった。
「野本、もう一度言ってくれ」
 野本はしゃがんだまま紅白帽子を目深に被り直し、メガネとツバをつけるようにフィットさせるとため息を一つついた。ジャクノスケに見せつけるためのため息だった。
「今の説明でわからないなら、何度考えても無理でしょう。算数の問題と同じです。それに、もう時間がありません」
 ジャクノスケは文句を言おうとした。算数の問題と同じってどういう意味だ、と。
「整列しろ!」
 男の先生のいかつい声がして、野本は離れていった。
 ジャクノスケは、その大きすぎる背中と比例して大きすぎる名前入りゼッケンを見ながら思った。野本は俺を嫌っている。あんなに優等生でうまく立ち回る野本が、俺にだけちょっと冷たい。どうしてだ。俺が中学受験をしないからか。
 さらに、思った。
 どうして、どうして俺の名前だけキャラクター要素が強いんだ。



●夏休み自由工作 episode2

「野本、お前に言われた通り、ランドセルを用意したぞ」
 もう八月二十日にも関わらず、アブラゼミがうざいぐらいに鳴いている。時々ミンミンゼミを見つけたらちょっと嬉しいような神社の境内で、相沢ソウイチロウは身長183センチの一つ下の後輩に赤いランドセルを渡した。
 頭の部分が寄りかかっている木の一番下の枝の葉で隠れて全然見えない野本ナオユキは、受け取ったランドセルの背を片手で掴んでひっくり返しながら一通り見た。
「先輩、これ、お古ですけど、どうしたんですか」
「妹のだ」
 野本は思った。まさか妹のを持ってくるとは。せめて自分のをダメにすればいいのに。
「どうして、自分のじゃ無いんですか。妹さんはどう言ってるんですか」
「もちろん了解済みだよ。そうじゃなきゃ持ってこない」
「どうして自分のじゃ」
 そこまで言って、野本はようやく枝葉の奥から顔を出した。そして、それですべてを悟った。それを見たとき、野本は思わず、特に意味は無いけど、レンズの上のとこがノンフレームのメガネを中指で押し上げずにはいられなかった。相沢は、起動戦士ガンダムに登場するシャア・アズナブルのプリントが胸にデカい赤いティーシャツを着ていた。
 野本は思った。今時の小学生で初代ガンダムやZガンダムを詳らかに知っているのは、ほんの一部だ。1%にも満たないだろう。ましてそのプリントティーシャツを買うとなれば、0.01%もいるかどうか。間違いない。この人、筋金入りだ。
「俺は、赤がいいんだ。とにかく妹のことは大丈夫だから、それでやってくれよ」
 相沢はそう言った。
「わかりました」野本は答えた。「やるからには、クオリティの高いものを作ります。少なくとも、先輩自身が本気でそれに効果があると信頼をよせても不思議ではないぐらいに見えるものでなければ、畑中先輩にも演技だと感づかれてしまうでしょうから」
「ああ。お前の自由工作は、俺が代わりにやっておくよ」
「ええ、お願いします。こっちはまかせてください。中学受験がんばってください」
 相沢はめっちゃ不器用だった。「慎重に慎重に」と自分に注意しながら折った折鶴でさえ、後半部分のひし形になって入り組んできたところで窮屈になって紙がかたくなって折れなくなった。クリスマス会や学芸会などで小学生が作りがちな折り紙を細長く切って丸くして両端を糊ではったのを連結させる飾りは、なんか自分のだけやけにぶっといし糊づけが荒くてすぐとれてくる。図工の成績は、いっつも5段階評価の3だった。図工や家庭科でいう3は、一番下の評価なのだ。
 だから、夏休みに入って遊んだり田舎のおばあちゃんちに行くなどしてから野本の家を訪れ、岩波少年文庫でいっぱいの部屋で「どうしても、運動会で畑中トオルに勝ちたいんだ。お前は学校一の秀才と言われているだろ。勝つ方法を教えてくれ」と言って二秒後、野本が「ウイングを作りましょう」と言った時、「ウイング」の意味はとりあえず置いておいて、「作りましょう」で瞬間的に、無理だよ、と思った。ウイングを作りましょ無理だよ、という感じだった。野本は言った。「相沢先輩の走力を今からあげるのはちょっと難しいと思います。せめて、夏休みに入ってすぐならよかったのに、もう八月十七日ですからね」「おばあちゃんちへ行っていたんだ。仕方が無かったんだ」「田舎はどこなんですか」「鎌倉だよ」「海水浴とかもしました?」それから他愛無い話が続き、初めて面と向かって喋る人に対するコミュニケーション能力を高める中学受験の面接対策を野本が終えると、作戦の全容が語られた。「なるほど、心理戦ってわけか」「ええ、そうです」「でも、俺は不器用だ。どれくらい不器用かといえば、クリスマス会でよく作るあの輪っかの――」
 そういうわけで、九月一日、二人はお互い持ち寄った作品を交換した。「ウイング」は素晴らしい出来だった。これは俺の不器用イメージすらぶっ飛ばしてしまうかも知れない、と相沢は思い、意気揚々と提出した。



●騎馬戦二回戦

 騎馬戦一回戦は野本ナオユキの作戦が当たった。野本が大山キョウゾウの帽子をとったことで、赤組のペースとなったのだ。白組は、畑中トオルが相沢ソウイチロウの帽子をとるなど計六つの帽子を奪う大車輪の活躍をみせたが、山田カズキや野本の活躍もあって赤組が僅差で勝利した。
 しかし、赤組は僅かな代償を払った。大山に帽子を掴まれて放り出された貧ジャクノスケが、保健室に運ばれたのである。先生や父兄が駆け寄って安否を問うと、ジャクノスケは「無理です」と即答し、そのまま担架で運ばれた。マラソンで最後に太った子を迎える時ほどには意図のはっきりしない拍手が贈られた。
 ジャクノスケが乗っていた騎馬は四年生で補充され、一回戦で馬となっていた五年生が上にあがった。その四年生は、赤組四年随一の運動神経、橋本ユウスケだった。
 よく知らない五年生と指を絡ませ、その上に思いっきり裸足を乗っけられて、ユウスケは思った。ちぇっ、なんなら俺を上にしてくれればいいのに、やる気でないぜ。確かにそれはそうだが、小学校という場所では、勝ち負けより平等性、公正が望まれるのである。
 パーン。二回戦が始まった。
「いくぞおおおお!」
 冷めたようなことを思っておきながら、こういったハプニングと選ばれし四年生という事実にどうしても年齢的に興奮してしまうユウスケは、同じ騎馬の五年生に作戦を聞くと、空砲が鳴った途端に大声をあげながら突進し、大山のもとへ向かった。
 でかい。いったい何を食ってるんだという疑問がユウスケの頭をかけめぐる。焼肉か、ひょっとして毎日焼肉なのか。
 ダメダメオールスターズが囲むが、大山も馬鹿では無い。それを抜けて動き回ろうとする。しかし、180センチを超える巨漢を支えてきた五人制の特注の馬も一回戦を終えてさすがに動きが鈍い。それは野本の馬も同じである。大山のところまで行くのに、時間を要する。
 それを察した野本が、遠くからダメダメオールスターズに叫んだ。
「みんな! 大山は僕に任せて、他にいくんだ!」
 野本は全体を見ていた。畑中先輩が予想以上に凄い。相沢先輩や山田先輩が二人でかかっても、かわされて雑魚馬の帽子をとっていくじゃないか。
「畑中先輩を止めるんだ!」
「わかった!」「わかったぜ野本!」「野本わかった!」「オーケー野本!」「了解だ野本!」「まかせとけ!」「大山を頼んだぜ野本!」「野本!」
 ダメダメオールスターズはいかにもダメそうに次々と声を上げ、大山に背を向け、団子になって畑中トオルの元へ走ろうとした。
 そこに、大山の手が伸びた。
「うわあああ!」
 狙われたのは、志田カズマだった。背筋力に定評のある志田の人並みの握力をもつ手が、大山の測定不能の握力を秘める手に掴まれたのである。仲間達はそれを見て、大ピンチの志田を励ました。その頃には、よくわからない仲間意識が生まれていたのだ。
「志田!」「がんばれ志田!」「志田ぁ!」「志田ファイト!」
 それはユウスケも同じだった。それが使いどころの無い男子選抜と知らないユウスケは、むしろその仲間として認めてもらいたがっていたのだ。だから力の限りシャウトした。
「志田先輩、しっかり!」
 でも、ダメだった。志田の馬は崩れ、ついでに帽子もとられた。しかし次の瞬間、更なる悲劇が彼らを襲ったのだ。
 悲鳴と歓声が入り混じる中で、帽子をつかんだ手を上にあげた大山の体がゆっくりと前に倒れてゆく。馬がバランスを崩したのだ。
 まるで自由の女神が倒れるようじゃないか、と思った父兄もいた。大山と自由の女神は全然関係無いけど、なんとなくそういう光景だったのだ。
 そして、確かにそれが倒れたあとには、体の自由を奪われた小学生達がいっぱい転がっていた。大山の馬を崩すのと引き換えに、ダメダメオールスターズは、軽めの打撲やうちみ、すり傷などでほとんどが戦えない体となっていたのだ。日頃の運動不足やゲームのやりすぎが精神的にたたったと言える。
 そこで直ちに笛が鳴り、安否の確認とともに二回戦の勝敗を見きわめる。
「痛い痛い痛い痛い」「やばい」「立てません、立てません」「僕の水筒を持ってきてください」「僕の水筒も!」
 選ばれし者達の心は、一度の肉体的ショックでたちまち萎えていた。どうせこれで最後の出番だ。ユウスケと無傷だった四人以外は両手で×のサインを出したりして、三回戦の不参加表明をした。結構、サッカーの試合は見たりしているのである。
 そして、白組にも三人の怪我人が出た。大きすぎるクラスメイトを支えて歩き回り、挙句の果てに下敷きになったのだ。後ろの方を持っていた二人は無事だった。
 一方では残った騎馬が数えられ、白の旗があがった。畑中トオルの独壇場で、白組の圧勝だった。これで一対一。
 いよいよ次が、全体的な勝敗を決する三回戦である。しかし、赤組は窮地に立たされた。またも欠員を四年生から補充しなければならない。担任の先生に選ばれて、赤い帽子をかぶった数人が校庭に並べた椅子の間を抜けて前に出てくる。
 白組も三人分の補充だ。白組の教師と大山が集まって話し合った。少しして指名されたのは三船シンイチただ一人だった。この浅はかにも思える考えはしかし、運動会というハイテンション現場では効果覿面だった。綱引きのことを覚えていた父兄達からはどよめきが起こり、すぐに歓声に変わった。



●夏休み自由工作episode4

 白石ナオミは、放課後、一部の五年生でにぎわう自由工作展覧スペースに居た。
自由工作って、その人のセンスが一番出るのよね。ほら、あの吉岡の「モーターカー」なんか一番ダメな例。自由工作に、モーターつけた船とか車とか作る奴って必ずいるの。でも、あれは何かのキットなの。売っているキットなの。笑っちゃうわ。それに比べて、あたしのこれ、やっぱりすっごく光ってる。見る人が見ればわかるって感じで光ってる。「大草原の小さな紙粘土の家」、題名もかわいくひねってる。最っ高だわ。特に煙突からの煙も無理やり紙粘土でモコモコさせたのが秘めたる女の子の力強さを物語ってる。これにはかなり苦労したもの。乾かそうとしては折れ、乾かしては折れ、の繰り返し。一度なんか泣いた。あんまり失敗するのにたまらなくなって。お母さんは、もう雲はあきらめたら、綿で作ったら、と言ったけど、そんなしょうもないこと出来ないって、あたしはあきらめなかった。それを乗り越えて生まれた、産みの苦しみで生まれた、中に針金を入れるっていう最終的なアイデアには、みんな度肝を抜かれるに違いないわ。
勝ってる。勝ってる。絶対勝ってる。勝っ……てる。微妙だけど勝ってる。
ナオミは一人ひとりの作品を見ていき、自分の作品と比べていった。そこで立ち止まった。
絶対勝ってる。ていうか、なに、この、しょぼいのは。絶対勝ってる。貝を、ああ、はりつけて、顔にしてるのね。何年生のアイデアよ。誰よ、え、野本君? 嘘。一体どうしたのかしら。「湘南で拾った貝で作った顔」なんて、しょぼすぎるじゃない。ベスト・オブ・しょぼいわ。野本君らしくもない。
 その時、展覧スペースの奥、六年生コーナーで、そこにいるみんなに聞こえるように出された声があった。
「このランドセル改造したやつ、すげー!」
 好き勝手に散らばって見ていた全員が、持ち前の小学生的無邪気ヤジウマ根性で殺到した。
「ホントだすげえ」「力作」「光ってる」「ランドセルの無駄」「いやでもすげえよ」「何に使うんだ」「背負うんだろ」「へえ」「でも、背負ってどうすんだよ」
 そうして盛り上がる皆は、あることに完全に気づいていた。ウイングの隣にあるそれは、どうしたって目についた。野本のやつ、この山田って六年生とかぶってる。しょぼい作品でかぶってる。でも、誰も何も言わなかった。野本はウドの大木ではない。優等生なのだ。ここで馬鹿にすると、小学五年生という若さでは説明することが出来ない、あの気まずい感じが俺たちを襲うのだ。彼らには本能的にそれがわかっていた。腫れ物に触るように、五年生たちは山田カズキ作の「画用紙に海で拾った貝を貼り付けて顔をつくってみました」を見ていた。



●武藤の嘘嘘早朝ジョギング

 早起きしてジョギングすることが僕の日課だ、ということに4年2組の武藤ヨシオはしてある。この嘘、初めのうちは本当だった。武藤は三日間、早朝ジョギングをしていた時期があったのだ。その頃、武藤は冒頭の言葉を小学校で言った。空気がおいしい、薄暗くて幻想的、街が動き始める、みたいなことも言ったが、その時は本当に思っていたのだ。
 そんな嘘をついたことさえ自分で忘れていた夏休み明けだった。
「武藤、俺もさ、始めようと思うんだよ」橋本ユウスケが言った。
「何を」
「早朝ジョギング」
 武藤のコンピュータが嘘嘘フォーメーションを組むよう命令を出す。でっちあげろ。夏休みの早朝ジョギングストーリーを練り上げろ。
「もうすぐ運動会だろ」ユウスケが続けた。
「うん」
「やっぱり練習しといた方がいいと思うんだよ。だから一緒に。夏休みもやってたんだろ」
「ああ。夏は日が早いから時間も早めにしたけど」
「へぇ」
 武藤は窓の外に目を向け、少し間を置いてから言った。
「朝五時に、ゾウさん公園だ」
 ゾウさん公園は、ゾウとライオンの何で出来ているかわからない硬い丸っこい模型が一メートルの間を置いて配置された小さな公園である。正式名称はわからないがそう呼ばれている。
 朝五時、武藤はライオンの上にいた。まっすぐに立っていた。ばっちりお母さんに起こしてもらったのだ。武藤自身はそれを「目覚ましお母さん」と言う。略して「目覚まし」、嘘をつかずに恥もかかないといういやらしい魂胆だ。
 アスファルトを運動靴が叩く音が聞こえてきた。と思うや、すぐにユウスケがやってきた。
「おう、五時ってきついな」ユウスケはゾウに座った。
「そうでもないよ」武藤はライオンに立ったまま言う。
 そうでもないよ、と言ったとはいえ、本当は、起きた時はきつかった。お母さんに「コーヒーコーヒー!」と叫んでわざわざブラックで飲み、がぶがぶ飲み、万全を期してやってきたからこそ言える台詞だった。起きたら起きたで興奮してきたのだった。
「さすがだな」
「じゃあ、行こう」武藤は走り出した。
 武藤は走った。なぜ走らなければいけないのか。くそだるいと思いながら。ユウスケは軽快な足の運びでついてきた。指が第二間接から飛び出した、スポーツマン系小学生御用達の手袋をしている。
 正直、武藤は特に運動神経があるわけではなかった。そして自分でもそれはわかっていた。だから、嘘でかなり援護射撃してきた。早朝ジョギングの話もそうだし、何か記録を計る時はほとんどケガをしている設定で臨んだ。体操服の裾から湿布がチラチラ見えるように貼った。湿布を見るとすぐどうしたのと訊いてくる小学生の心理を逆手にとったのだ。さらにヴィックスもなめる念の入れようだった。学校でなめてもいい飴、ヴィックス。そんなアイテムを武藤が見逃すはずはなかったのだ。それさえなめていれば、小学生はすぐ喉大丈夫と訊いてくるのだ。そして一個頂戴と言ってくるのだ。
 しかし、今朝の武藤は丸腰でいこうと決めていた。体調悪いのと早朝ジョギングは同時に成立しない気がしたからだ。ジョギングだから大丈夫だという思いもあった。全力を出して、それが七割ぐらいだと思わせる演技をすればいいだろう。
 それから黙って、長いこと走った。自称「いつものコース」を何周もした。ゾウさん公園の前に帰ると一周とする、四百メートルほどのコースだった。とにかく淡々と走った。
 ユウスケの身体能力は予想以上だった。息を切らすことなくついてきた。武藤はもう息が切れていた。まずいではないか。毎日やっているということになっているのだから、自分が先にヘロヘロになっては、他の嘘まで露見してしまうかも知れない。
 さらに十分ほど走った。ユウスケはまだピンピンしている。どういう肺胞をしてやがるんだ。やばい。でも、今日の俺はいつもと一味違うんだ。頑張るんだ。武藤は自分にエールを送った。しかしやがて、嘘で固めたガラスのハートが悲鳴をあげ始めた。
 8回目のゾウさん公園が見えた。ユウスケをチラリと見ると、まだいけそうな顔だ。化け物か。どうする。どうする。まだいくか。どうする。疲れた。どうする。もうすぐそこだ。ちょっとでも過ぎたらもう一周する破目になる。破目に、なる。
 武藤は突然の急カーブでゾウさん公園に入り、半ば倒れこみながらゾウさんにすがりつき、ジャージの裾をたくし上げ、靴下の中からヴィックスを取りだした。そしてユウスケからぎりぎり見えるぐらいの角度で口に放り込み、それを舌でころがしつつ、無理やり鼻呼吸しながらユウスケの方を向いた。
「空気が(スヒューッ)おいしい(スヒューッ)だろ(スヒューッ)」



●夏休み自由工作 episode1

 僕のうちにはなぜこんなにセロハンテープがあるのだろう。そして、どうしてそれはみるみるうちに無くなってゆくのだろう。
 畑中トオルにとって、それは長年の疑問だった。『名探偵コナン』のアニメをなんとなく見てしまう月曜日の夜でさえ、その疑問がトオルの頭を離れなかった。テレビの横に積まれたセロテープの入った箱があるからだ。
 そんな家庭環境で過ごしてきたトオルは、自然、セロテープはニチバン登録商標を持つ商品名であってそれ以外はセロハンテープと呼ばなければならないという完全にどうでもいい口に出すと皆から煙たがられてしまいそうな知識まで身につけているのだった。
 父親のサトルにセロハンテープを借りるたび、トオルはそのセロハンテープの輪にギザギザの金属をとりつけて切り取る使いにくさに苛立っていた。全然だ、全然だよこれちくしょう、ちくしょう! 父さんは、こんなにも使いにくいのにあんなにも沢山のセロハンテープを消費しているのか。
 そんなトオルは、夏休みに入ってセロハンテープをカットするための台作りに励んだ。先生の机で見て、そのあと近所の文房具屋で手にとって調べたあのドッシリ感。そんなセロハンテープを切るというのが唯一の目的にしてはもったいないくらいドッシリした台を作るために、トオルは夏休みのほぼ半分を費やしたのだ。
 八月一日、トオルは「着工」と言って製作を開始した(トオルは家では結構ふざけるタイプだった)。重量感は、よくわからない平べったいプラスチックケース(拾った)に水を入れて底に取り付けることで醸し出した。大体の形は、フリスクの空きケース(拾った)に色を塗って組み上げた。セロハンテープを切り取るギザギザの金属は、今まで家で使っていたものを取ってボンドで固定した。セロハンテープを取り付けてクルクルするとテープがいい感じに徐々に引っ張り出せる凄く便利な風車みたいなところはそれは買った。小学六年生に何でも出来ると思ったら大間違いだ。時には市販に頼る弱さでさえ必要だ。結局、父子家庭が最も信頼を寄せるのは、逆説的に市販のものなのである。トオルにはそれが無意識に身についていた。
「トオル、お前毎日一生懸命だけど、何作ってるんだ」
「なんでもないよ」
 トオルは隠し続けた。「プレゼントにはサプライズを」、それが、トオルが家でテレビを見まくって得た概念なのだ。そして、初めのうちはそんな気なかったが、途中からは自由工作もこれにして一石二鳥してやろうとトオルは思っていた。一旦渡してから「自由工作で提出するから」などと言って返してもらうのはあんまりなので、トオルがサプライズを演出するのはまだまだ先のことになるはずだった。
 八月三十日、完成。九月一日、父親に明かさぬまま自由工作として提出、展示。でもそれから何日も経たないうちに、トオルは我慢の限界を迎えた。早く父さんにこれを渡さないと、今日も父さんはそんなに沢山何に使ってるかわからないけど苦労してセロハンテープをカットすることになるんだ。早く、セロハンテープが簡単に切れて喜ぶ父さんの顔がみたい。その時こそ、父さんがセロハンテープを使いまくる謎がわかる気がする。
 トオルは同じクラスの皆が絵の具バッグを手に持って図工の教室に早めに出向くスキを狙い、自由工作展示スペースに向かった。



●避難訓練 4年1組の場合

 サイレンの音が鳴ると、みんなは素早く座っていたイスもそのまま、滑りこんでいくようにして机の下にもぐりこんだ。俺が一番早かったんじゃねえか、と叫びだしたい気持ちを抑えこみながら、机の脚を握った。
 明日は防災訓練があります、と前日に知らされていた小学生の多くはタイミングを計りながら一日を過ごしていたのだ。4年1組でもそれはそうだった。特に男子の熱の入れようは尋常なものではなく、いつ放送があってもいいように、座布団代わりの防災頭巾入れのヒモを椅子から外しておいたりしていた。
「みんな入りましたかぁ」
 先生も自分の大きめの机に入りながら、生徒達に問いかけた。
「入ってる、先生、俺入ってるよ」
「少しも出てないぜ先生!」
「はみ出し感ゼロだ!」
「もう、逆に早く崩れてこいよって感じです!」
 男子は完全な対応を実現したということを伝えたがって大声をあげた。
「大変結構。じゃあ、このまま次の放送を待ちましょうね」
 先生は机の下からそう言った。
 そんな中で、窓際から二番目の一番後ろの席にいる香山ハルナは、あることに気がついていた。
(三船君、もぐってない)
 窓際最後方のあいつ、三船シンイチがいる机の下には、絶え間なく貧乏ゆすりをしている足しか無かった。
 香山ハルナは困惑した。他のみんなは前を向いて気づいていない。
 シンイチは何をしていたのか。
 シンイチはドラえもんを描いていた。シンイチはドラえもんが大好きだ。世界で一番感動するのはドラえもんが未来に帰っちゃう時のアレだと思うし、世界で一番怖いのは『ドラえもん のび太の魔界大冒険』に出てくるメジューサだと思っている。そんなドラえもんがかなり巧く描けつつあった。
 顔は描ける。顔なら少し練習すれば誰でも巧く描ける。しかし、多くの人はそこでドラえもんを描く練習を止めてしまう。よしドラえもん描ける、となってしまう。もしくは、首輪と鈴をつけて終わりにしてしまう。ところがどっこい、シンイチは体こそ重要だと考えていた。ドラえもんの体のバランスがアニメキャラの中で一、二を争うほど取りにくいのは先刻承知、尊敬する藤子・F・不二雄先生でさえ最初の方はバランスを取りかねている。でかすぎている。でも、だからこそ重要なのだ。体を描けてこそ、ドラえもんは完成する。なぜなら、四次元ポケットはお腹についているからだ。
 まだ両腕が描けたばかりだったが、この腕と体のバランスはパーフェクトだ。だから、もぐるわけにはいかなかった。こんなチャンス無い。今のこの感覚を失ったら、もう、ドラえもんの体はもう、二度と描けないに違いない。そんな予感がシンイチを支配していた。
 ハルナは迷っていた。先生に報告すべきかどうか。でも、三船君、何か描いてる。かなり真剣に何か描いてる。しかも机に描いてる。ハルナはそれを結構無理な体勢で、首の筋を痛めながら机の下から見ていた。
 それから新たな放送が入るまでは時間があった。
 結局、ハルナは言わなかった。シンイチが途中で静かにもぐったからだ。描き終わったみたい、とハルナは思った。後でこっそり見よう。
 しかし、書き終わったのでは無かった。シンイチは、小学校の机にありがちな大きめのゴリゴリの穴が、どう考えても、どう描いても、ちょうどドラえもんの股間の辺りに来てしまいそうなことに気づいて冷めたのだ。最初に確認しておけばよかった。それかせめて、それがシッポとして利用できる位置にあったなら、とシンイチは机の下で思うばかりだった。



●騎馬戦三回戦

 騎馬戦三回戦の開始を告げるピストルが鳴った。
 4年1組から借り出された三船シンイチは、あれよあれよと身長180センチの大山キョウゾウに担ぎ上げられ、その高さに驚いていた。会場全体が調子に乗ってヒーローを仕立て上げようとした時、五・六年生の競技である騎馬戦の騎馬の上に四年生も上がれるようになるのだ。事実、大山と五年生二人がシンイチを担ぎ上げたときの盛り上がりようはちょっとわざとらしいぐらいだった。
 シンイチが辺りを見回すと、同じ組の六年生畑中トオルが既に帽子を一つ奪っているのが見えた。
「行くぞ!」
 大山が野太い声をあげて走り出した。また歓声が上がる。
 大山はまず野本ナオユキが乗る騎馬を狙った。しかし取りには行かず、辺りをグルグルと回る。その度に方向転換しようとする野本の馬はいとも簡単にバランスを崩した。代役の四年生には、いくら六人がかりでも巨大な先輩を支えきる力は無かったのだ。
 大山はシンイチに「よし、いいぞ!」と声をかけながら走り出した。
 次の狙いは、トオルと競り合っている相沢ソウイチロウだった。二人が組み合っているところに背後から近づき、シンイチはあっけないほど簡単に帽子を取った。
 しかしそれと同時に、背後から赤組の山田カズキの乗った騎馬が猛然と迫ってきていた。それを察知した大山はその騎馬に腰を突き出してブロックし、そこで振り向いたシンイチは前のめりになっていた山田カズキの帽子を掠め取った。またそこで大歓声が上がった。 
「三船君の独壇場だ!」
「三船の運動会だ!」
「世界のミフネ!」
 父兄達の賛辞の声は止まず、趣味がカラオケの母親の一団辺りから三船コールも始まり、なぜか赤組の子供を持つ父兄ですらそれに応じるのだった。筆者は父兄って書くと母親や中学生ぐらいの姉とかが含まれなさそうで少し心配なのであった。
 それはともかく、主力を失った赤組にもう力は残されていなかった。みっともなく逃げ回って、最終的に恥ずかしそうに帽子を取られるぐらいしか出来なかったのだ。
 結局、シンイチは鳴り止まない三船コールの中で八つもの帽子を手にしていた。圧倒的な勝利だ。
「三船君凄い!」
「二学期の体育の成績は5で決定だな!」
 先生達も声をかけた。
 しかしシンイチの中には釈然としない気持ちがあった。
「よくやったぞ!」
 自分を降ろし、背中を叩いて祝福してくれる大山の顔を見てその気持ちは、世の中に対する不信感はなおさら強まっていった。
 判定の時、見て明らかだが会場は不気味なほど静まった。
「文句なしで、白組の勝ち!」
 アドリブを入れた先生の大きな声を歓声と拍手が追いかけた時、シンイチは持っていた帽子をラインを引く赤い用具の上にまとめて置いて走り出した。
「あっ三船が!」
 父兄はあっけにとられて拍手を止め、退場門を出て行くシンイチを目で追った。
「まさか!」
「逃走だ!」
 シンイチは退場門をくぐってもなお足を止めず、校庭が見えなくなってざわめきが遠くなる中、とうとう正門までやって来て、そのまま校外へ全力疾走で出て行くのだった。予想外のことに、先生達が走り出すのには時間がかかった。



●武藤の運動会ずる休み

 4年2組の武藤ヨシオは家にいた。
 朝の七時、起きてそうそう「調子悪いかも」と家族に言い放った武藤はまんまと体温計を手にし、布団でこすって7度2分にまんまと調整した。それでも武藤は「行かなきゃ、行かなきゃ」とうわ言のようにお母さんの前で繰り返し、部屋で無理して準備を進めている振りを装いながら逆立ち、顔面の血管をパンパンにして体温を上昇させ、心配して額に手を触れてくるお母さんをまんまとだまくらかした。「もう一度計ってみなさい」と言うお母さんに従って体温計をわきに挟んだ武藤はそのままトイレに行って猛然と服でこすってまんまと8度3分をたたきだし、またわきに挟んで出てもいないおしっこを流すとトイレを出た。ソファにしばらく座ってピピピと体温計が鳴ればそこで「ひどくなってきた熱」を仕立て上げた武藤の完全勝利、アイスノンにタオルを巻いてまんまと自分の部屋のベッドの中なのである。お母さん学校に電話しといて、なのである。
 眠気が残っていた分の一眠りをして、武藤は目を覚ました。時計を見ると十時だった。土曜日だから、リビングにはお父さんもお母さんもいる。いつもならこうして休んだ日はお母さんもパートでいないので、リビングでプレステをしながら飲み食いして過ごすのだが、今日は慎重にいかねばならない。そう考え、このままでいることにした。
 もう始まっている頃だ、と武藤は思った。
 リレーは補欠の星リュウイチの奴が出るんだろう、と武藤は思った。
 と言うか、競技はともかく、俺はラインを引く係だからそれがややこしいことになるだろうな、と武藤は思った。
 暇だった。
 今頃みんなは走ったり転んだり組んだり乗ったり見たり飲んだり叫んだりしているのだろうと考えると、ずいぶん楽しそうだと思った。
 やっぱり行けばよかったのだろうか。50m走でわざと最初に転んであとは諦めてる感じで走る作戦もかなり練り上げていたのだ。しかし、リレーがどうしてもダメだった。タイム的に見て、自分が走者の中で一番遅い。武藤は持ち前の下調べ根性で自分と走る走者のベストタイム、平均タイムを完璧に把握していた。それを踏まえ、ベストタイムでリレーの走者が決まるというシステムを武藤は逆手に取った。少々のフライングおかまいなしの小学校で、少々どころではないフライングをやってのけたのである。武藤の平均タイムは、クラスの男子の七番目だった。
 そんなことを考えながら音を消してポケモンをやっていると、あっという間に一時前だった。好都合だったが、お父さんとお母さんは一度も部屋に来なかった。気を使っているのだろうか。
 武藤はもう一度、今度は正当に熱を測ってみた。6度2分だった。ベッドを出て、リビングへ向かった。
「どう? 少しは良くなった?」ドアを開けるなり、お母さんが訊いた。お父さんも心配そうにこっちを見ている。病人を見る目だ。しかし、もう、武藤の頭にまんまと感は無かった。
 いつも食事をするテーブルの上には、お重が開かれていた。お父さんの左手には楊枝に刺さったカラアゲ、そして右手には、アルミホイルで包んだ、おにぎり。埃っぽい校庭や手ごろな段差とか、ウサギ小屋の付近を避けて敷いたビニールシートの上でワイワイやるはずだった、お母さんが朝から一生懸命作ったお弁当が、今、家にある。
「午後から行く。もう平気なんだ」
「え?」
 武藤の決心は固かった。「熱測ってみる」と言って、今度は挟んでから鳴るまでお父さんとお母さんの前を離れなかった。6度3分を見せて「ほら、大丈夫」と言った。さっきより1分あがったのは、みなぎるやる気のせいかも知れない。
 二十分後、親子は家を出た。今ならまだ、二種目ぐらい間に合う。
 学校へ徒歩で向かう武藤の頭の中では、午前中休むほど体調が悪いにも関わらず午後からやって来てリレーに出てそこそこの走りをする自分とそれを称えるクラスメイト達や先生、という汚い考えがこの期に及んでうずまいていた。



●三船捜索開始

「あれは……三船君だ」
 仮病で遅れてやって来た武藤は、もう少しで正門というところで、凄い勢いで出て行くシンイチを目にした。遠くから響いてくるただの運動会とは思えないざわめきが、ただならぬ雰囲気を感じさせる。お父さんとお母さんの前なので君付けにした。
 正門から入ると、先生達がどっと走って来た。4年2組の担任、緒方先生もいた。
「先生!」武藤は先生を呼んだ。
「武藤、来たのか。でもな、今はそれどころじゃないんだよ武藤。大変なんだ」先生は一度立ち止まったが、すぐに走り出した。「お父さんもお母さんも楽しんでいってください!」
 ちょっと失礼なんじゃないだろうかと武藤夫妻は思った。武藤といえば、あせっていた。これは何か後々まで語り継がれるような事件が、今思えばああいうことがあってよかったなと時が経って思えるような事件が起こっているに違いない。そうなると、その大人になった時、そういえば、という感じで、そういえばあの時武藤の奴が遅れてきて、という感じでついでに自分のことが思い出されて、どうしても事件と比較されて、自分のしょぼい感が出てきてしまうのは否めないのではないか。
 武藤はお父さんおと母さんに別れを告げ、一応校庭に出されていた自分の席に向かった。
「武藤!」「あ、武藤!」「来たのかよ武藤!」「凄い回復力だな武藤!」「リレー出れるよな武藤!」
 みんなの気を引いた武藤はいい気分で席に着いた。
「まだちょっとフラフラするけど、休んでられないからな。リレーは頑張って出るよ。ところで、何があったんだよ」
「何があったなんてもんじゃねえよ、1組の三船がやってくれたんだ」
「正直、全部もってかれたぜ」
「綱引きじゃ一人だけ綱持ってるし、五六年の騎馬戦に臨時で出たら大活躍だし」
「挙句の果てには逃走だぜ!」
 この盛り上がりにはそういうわけがあったのか。一人だけ綱持ってるの意味は正直わからないけど、とにかくあの目立たない三船がその中心にいるらしい。
「俺、今ちょうど、三船を見たよ」
「まじかよ武藤!」
 三船騒動にあやかってみんなの注目を集める。武藤は四年生にして、かなり計算高くそれを履行することが出来る。
「校門から出てくるところを見たんだ。多分、三船を見たのは俺だけだ。遅れてきた、俺だけだ。三船の奴、あいつ、思いつめたような顔をしてた」
「思いつめたような顔だって!」
 別に顔なんて見てなかった。でも思わず言っちゃう、そんなどうにもならない気持ちを武藤は感じていた。遅れてきたアッピールも挟み込みながら、自分の手柄をクラスメイトに植え付けるためには嘘というスパイスが必要なのだ。
「武藤、来たんだな」
 遠くから聞えたその声は、騎馬戦に借り出されていた橋本ユウスケだった。
「午前中寝て、なんとか動けるぐらいにはなったからさ」
 あの早朝ジョギング以来、武藤はユウスケを警戒している。あの日は少々ミスをしたのだ。
「そうか。ところでみんな、俺は今から三船を探しにいくよ」
 ユウスケの何気ない宣言に4年2組は騒然となった。
「なんだって!」
「学校の外に行ったんじゃ、先生に怒られるぞ!」
 ユウスケは余裕の態度で水筒を開け、麦茶を注ぎ、ひと口飲んだ。
「ユウスケ、こんな日ぐらいスポーツドリンク入れてもらえよ」
 誰かが言ったが、ユウスケは聞えない振りをした。
「このままじゃ三船の運動会になっちまう」どこかの父兄が叫んだ台詞をそのまま言ってしまうユウスケだった。
「三船を見つけた奴が、新たなヒーローってわけだな」武藤はみんなに聞えるように言った。
 男子の目が輝きだした。
「そうだ、ヒーローだ!」「卒業するまで自慢できるぞ!」「三学期の学級委員長は間違いない!」「悪くても副だ!」
「俺はもう、すぐ行くよ。先生がいなくて再開する予定も無いみたいだから」
 ユウスケは乱暴に水筒の蓋をしめると、すぐさま走り出した。蓋に残った水滴を払うあの動作をする時間も惜しんで走り出したのだ。ある意味、ベタベタしない麦茶だからこそ出来る芸当といえる。
 みんなはとまどった。怒られるのはイヤだとヒーローになりたいんだの間に横たわるグレーゾーンを四年生の頭脳が右往左往する。
「大丈夫だ。友達のためという理由がある限り、先生はぼく達を怒れない」武藤はここぞとばかりにみんなの背中を押した。
「そうか武藤!」「頭いいな武藤!」「さすがだよ武藤!」「そうと決まったらよし武藤!」
 一目散に駆け出す4年2組の男子達だったが、武藤はそれを見届けて椅子に座った。
 武藤の頭脳は、確率の低い三船探しよりも、調子悪い様を植えつけるとともに女子と喋っている方がトータルで考えてうまみがあると判断したのだ。



●相沢ナツコの告発

 武藤ヨシオを除く男子全員が校外へ飛び出した4年2組の席では、女子の何人かと武藤がお喋りをしていた。
「朝は吐きそうだったんだ。吐かなかったけど」武藤は言った。
 嘘と言えどもゲロを吐いたことにはしたくない。そんな見栄が武藤にはあった。
「大変じゃない」「そんなんでリレー出れるの?」「代わってもらえば?」
「いや、迷惑はかけられない。ちょっと走るぐらい大丈夫だよ」
 相沢ナツコはそこで動き出した。
「武藤君、大丈夫なの?」
 ナツコが寄っていくと、それまで喋っていた女子はさり気なく席を移動して、他の女子とお喋りを始めた。武藤も、普段喋ることの無いナツコに対して臆するところがあった。
「うん、なんとかね」平静を装いながら武藤は言った。
「嘘だもんね、全部」
 武藤にしか聞こえない小さな声だったが、それで充分だった。
「何が?」武藤はしらばっくれた。同時に水筒に手をかけ、動作の中に動揺を隠そうと試みる。ドキドキがロケットスタートした。
「無駄よ。私にはわかってる。他の子にはわからないだろうけど、私は伊達に三国志に詳しいわけじゃない。この人生に生かしてる。三国志にてんこ盛りになってる訓戒を自分の糧にして生きてる」
 武藤は観念した。本当にわかっているんだ。こうなった以上言い返した方がカッコ悪いと判断して口をつぐんだ。でも、ドキドキは加速する。終わりだ、もう何もかも終わりだ。
「勿論、あなたの仮病を他の子に言うようなことはしないわ。どうせクラスで浮いてる私なんか、言ったところでみんな相手にしないでしょうけどね」
 その言葉を聞いて、武藤はほっとして力が抜けた。しかし、本当に安心できたわけではない。ドキドキはなお止まらない。
「ただね、リレーに出るのはよしてほしいの」
 まさかこの女子、と武藤は思った。俺が元気いっぱいなのを知ってもリレーに出るのを止めるということは。
「武藤君、足速くないでしょ」
 血の気が引いた。なんて女子だ。こうなったら事を荒立てることなく何でもはいはいと言っておこう。と言うか、俺はこの相沢さんの奴隷になろう。そうだ奴隷になろう。でも待てよ。まだ四年生だ。小学校生活はこれから二年半もある。
「私のお兄ちゃんも出るの、知ってるでしょう? あなたと同じチームで。私ね、お兄ちゃんにどうしても勝って欲しいの。作戦勝ちして欲しいの。そのためには、よりよい条件でアンカーのお兄ちゃんに渡したいの。そのためには、平均タイムが遅い武藤君は邪魔なの。このリレーはあなただけのリレーじゃないのよ」
 武藤は声が震えそうになるのを気にし、大きく息を吸った。
「わかった。このまま調子の悪い振りをして、だんだん悪くなる振りに変化させていって、最終的に断念する振りをするよ。悔しがる振りもする。星に代わってもらう」
 その台詞の違和感は誰よりも武藤自身の胸に響いた。振りばっかだ。自分の人生に埋め尽くされた振りを強烈に自覚したのだった。俺はただのピエロだったのか。
「悔しがる振りは勝手にしてくれたらいいけど」
「ああ。だから、本当に、黙っていてくれ。頼むよ。ホント、お願いだよ。なぁ、ほんと、一生のお願いなんだ。俺は今まで、一生のお願いを使ったことが無いんだ」
 武藤の小学四年生的弱さが噴出する。
「さっきも言ったけど、私は言わない」
「ありがとう、本当にありがとう。でも、一つだけ教えてくれ。いつから気づいていたんだ? どうして気づいたんだ?」
 ナツコに気づかれたということは、他のクラスメイトにも気づかれているかも知れない。武藤はそれを恐れていた。
「二学期の最初よ。みんなの50m走のタイムを計った時、武藤君、遅れてやって来たでしょう。保健室に湿布を貼りに行ってたとかなんとかで。ま、あれも嘘でしょうけどね。あのあと、体育は自由時間になってみんなは遊んでいた。あなたは一人でタイムを計った。その時、スタートの合図をしたのが誰かぐらい、覚えているでしょう」
 武藤はその時、うまくやったと思っていた。「合図は誰かに頼んで」と先生に言われた時、一番近くにいた人を選ぶ感じでナツコを選んだのだ。そもそも、ナツコが一番近くにいる時を狙って「スタートの合図はどうするんですか」と先生に訊いたのは武藤自身だった。完全に計算だった。
「そうか」武藤は言った。
「あれは、偶然じゃ片付けられないぐらいのフライングだったわ」
 校庭はまだ騒然としていた。そのざわめきに二人の会話は守られていた。
「あなたの生き方が嫌いなわけじゃないの。私はそういうのに興味があるし、年齢を考えたらあなたはうまくやっていたと思う。でも、今回はリレーに勝つための軍律に背いた。だから、泣いて馬謖を斬るってところね。もうこのへんにしておくけど」
 ナツコは席を立った。帰師は掩う勿れ、窮寇は追う勿れ。ナツコは司馬懿が街亭の戦いで引いた孫子の言葉を思った。三国志好きとして日常で使うのはメジャーな故事成語までとする、そんなルールを愚直なまでに守っていた。



●香山ハルナVS雑種犬

 香山ハルナは息を切らせて住宅街を走っていた。
 三船シンイチと同じ4年1組の生徒達は一旦戻ってきた担任の先生の「車に気をつけながらね!」の言葉を念頭に置いて動き出したのだ。自主的に捜索を開始した4年2組に加え、高学年の男子グループ、父兄の有志も争うように参加し、一介の小学校四年生一人の捜索にここまで人手がかかったことはかつて無いと思われた。
 香山ハルナはシンイチに恩があった。そんなことがあるのは自分だけのように思われた。だから、自分がシンイチを見つけられそうな心持ちがしていたのだ。
「三船君超ウケるね」
 親友の兵藤ユカリちゃんはさっき冗談ぽく言っていたけど、あたしはそんな風にとることは出来ない。首を振って見回すたび、ハルナの肩まである髪が大きく揺れた。
 ハルナは一人でどんどんと進み、家と家の間に細い路地を見つけて立ち止まった。河川敷へと続く細い道だ。
 三船君はこの道を通ったんじゃないかしら。
 そんな自分的推理が直感的にビビッときて走り出したハルナは、路地に入ったところでまた立ち止まってしまった。
 そこには、大きな茶色い黒い汚い犬が繋がれていないフリーの状態で道に佇んでいた。尻尾をこちらに向けている。
 次の瞬間、ハルナの息遣いと足音が聞こえたのか犬が振り返った。
「あっ」
 思わず声を出してしまったハルナは犬が嫌いだった。犬の絵やぬいぐるみや文房具は好きだけど本物は勘弁、そんなよくいる女の子だった。
 しかし、ハルナはシンイチがこの向こうにいると強く信じていた。自分の直感を疑わなかった。
 無意識のうちに、体操着に包まれた細い体を捻りながら逃げ腰になっていたハルナは、決意したように犬と対峙する構えをとった。
 犬は動かない。犬が嫌いなハルナはその表情から何かを感じとる術を持っていない。心臓がドキドキしてくる。唯一の手がかりとなる短い尻尾は、くるりと上を向いているだけだ。
 これは雑種だわ、とハルナは思った。雑種は頭が悪いんだ。雑種はグッズにならないんだ。がさつで食べることしか考えていなくて、それが叶えられないと知るとひたすら吠えるんだ。そんな偏見がどうしても出てきてしまう。こんなことしか考えられないなんて、あたしってなんて女の子なんだろう、とハルナは少し悲しくなった。その間にも、ハルナの体はじりじりと後退していく。
 でも、三船君が向こうにいる。
 ハルナは体勢を低くした。
 犬の方も、それに反応して向き直り、身構えるような姿勢をとった。
 しばらく、両者一歩も引かないにらみ合いが続いた。
 無理。
 ハルナは踵を返して、走り出した。追いかけてくるのではないかという不安で、全力疾走で。昼下がりの住宅街に運動靴のバタバタという音が響いた。
 あそこに三船君はいないわ。ハルナは考えを無理やり捻じ曲げて現実に適応させることで自分を納得させた。



●白石ナオミのIRA☆IRAと野本の計画

 野本ナオユキは騎馬戦が終わってからトイレを済ますと。自分の席まで戻ってきた。まず、競技を終えた小学生がするように、水筒に手を伸ばした。中には疲れた頭をすっきりさせるホットコーヒーが入っている。
 みんなはぐるぐるまわらされた挙句に校庭へ崩れて砂だらけになるという騎馬戦で考えられる中で最も無様な負け方をした野本の顔を見ることが出来なかった。唯一の突破口とも思える「運動会にコーヒーかよ」「しかもホット?」「頭いい奴は違うな」「まずカフェインをとろうとするよな」というくだりは午前中にやってしまった。しかも三回ぐらいやった。
「ちょっと男子だらしないんじゃないの」
 白石ナオミはイライラしていた。そのイライラも、こんな大舞台だとはけ口を求めてしまう。口に出さずにいられないのだ。
「特に野本君、何よあれ。相手は四年生よ」
 野本はしばらく黙って、持っていたコーヒーを啜った。
 みんなはそれぞれ全然関係ないところを見ながら、でも時々首の振り向きを利用して目にいれながら、聞き耳を立てていた。
「ごめん」
「メガネくもってるわよ」
 みんなはそんなことがあったらもう我慢できないので野本の方を見た。本当だった。湯気の立つコーヒーの入った水筒に口をつけながら喋ったために、野本のメガネは白くくもっていた。そしてそれがみるみるうちに消えていく。みんなはそれを、おぉー、という感じで眺めていたが、すぐに我に返った。やめてくれよナオミ。それ以上、野本を馬鹿にしないでくれ。野本は優等生なんだ。
「あなたも大山みたいに下になればよかったのよ。一番重いくせになんで上にいるのよ」
 それは確かに、みんなが思っていたことだった。でもそれはやっぱり野本だから野本なりの考えがあるだろうと思っていたのだ。親達の間でも、野本君は開成を狙ってるらしいと評判だ。開成というと相当凄くて、それと関西の方の灘というのがとにかく凄いらしいのだ。
「その通りだ」
「わかってたんならなんでそうしないのよ」
 野本はそれっきり喋らなかった。黙ってコーヒーを飲みながら、今はぽっかり空いた校庭の真ん中を見つめている。
 しかし、誰が野本の考えを読むことが出来ただろう。小学五年生には夢にも思わないことだ。一人の小学五年生が流れを見ながら、運動会が盛り上がるほう盛り上がるほうへとプロデュースしていくなどということは。野本は今、怖いのだ。あまりにもうまくいきすぎていることが。あまりにも盛り上がりすぎていることが。自分の計画を超えて盛り上がっていることが。
 ナオミは憮然とした表情で得点板に目をやった。なかなか更新されないが、これで先ほどまでの赤組のリードは減ってしまったことだろう。男子が情けないからだ。
 その時、頭をかきながら席に帰ってきたのは吉岡シンだった。
「やばいよー。オレの帽子なくなっちゃった。あの、三船にとられたんだけど見つからないんだよ。やばいよー。って野本コーヒーかよ!」
 ナオミのイライラはそこで頂点に達した。
 ナオミは立ち上がって応援用に作った赤いボンボンを吉岡の顔めがけて投げつけた。そして走り出した。
「ダンスの練習してくる!」