九月の第二土曜日2


●香山ハルナの借り

 ハルナは恐れていた。今にも「じゃあこのページを、香山さん」と先生が言い出すのではないかと。
 教科書を忘れることなんて今まで無かったハルナは必要以上に怯えていた。忘れた時は忘れたと言えばいい、なんてことは大人にならないとわからない。でも、大人になっても、なぜ教科書を忘れたぐらいであんなに動揺していたかはわからないままなのだ。
 ハルナはドキドキしていた。国語の教科書が無いだけで胸が張り裂けそうだった。それでも唯一の抵抗として、一番後ろの席だというのをいいことに、教科書があるような体勢をして教科書があるという設定の空中に目を向けていた。
 あたしも男子のように「忘れちった」と言えればいいのに。なぜあたしは「忘れちった」と言えないのだろう。あたしが女の子で「忘れちった」という言葉遣いが出来ないからだろうか。
 そんなことをハルナは漠然と思っていたが、心を占めているのは「指されませんように」という単純な願いだった。
「じゃあ、この列の一番前から順に読んでもらいましょう」
 顔を上げると、先生は自分の列の前にいた。すぐさま、須賀ゲンキがハキハキと読み始める。血の気が引いた。聞こえてくる言葉が、自分にだけ通じない呪文のように聞こえる。
 どうして先生はそういうあて方が好きなんだろう。たまには横にあてていったり、ずっと一人に読ませたりすればいいのに。でも、ハルナは普段、教科書を持っている時はそんなことを思わないので、それはずるい考えだと思った。
 まる読みと呼ばれる、句点ごとに読む人を替えていくポピュラーな順番読みで、声はどんどん近づいてきた。
「ある秋のことでした」
 笑い声が起こった。ちょっとしか読まないところで笑いがおきるのはいつものことだ。これが大好きでいつもは笑ってしまうハルナだが、今日はそういうわけにいかなかった。もう次の次で、忘れ物がばれてしまうのだ。時計を見たが、まだ授業の半分も終わっていない。チャイムが鳴るはずも無かった。
 その時、肘に固いものが触れた。
 反射的に振り向くと、そこには国語の教科書があった。これまた反射的にそれを受け取った。
 それからようやく三船シンイチの方を見て、口の動きで「ありがとう」と伝えた。すぐさま教科書に目をやると、表になっていた裏表紙に鉛筆で「49ページ」と書かれていた。薄くへこんでいる。この跡は消えないのだ。
 すぐさま49ページを開いたハルナは前にいる山岡ユキノがたどたどしく読んでいる場所を見つけることが出来た。それが終わって、ハルナは読み始めた。
「雨があがると、ごんは、ほっとして穴からはい出ました」
「じゃあ横にいって、三船君」
 ハルナは後でかなりかわいそうなことになってしまうきつねと一緒にほっとして、すぐにはっとした。教科書。でも、先生が三船君の方を見てる。
「空はからっと晴れていて、もずの声がきんきん、ひびいていました」
 先生から見えないようにノートの半分を立てるようにしたところを見ながら、シンイチは言った。何事も無かったかのように、まる読みは前の方に流れていった。その後、開かれたノートには何も書かれていなかった。
 ハルナは教科書を借りたまま尊敬の眼差しでシンイチを見ていたが、シンイチがこちらを見ることは無かった。



●最後のダンス練習

「ナオミ」
 校庭の隅でダンスの練習をしていた白石ナオミに、5年1組の本多ユリコ、早川ナミが声をかけた。
「一緒に練習しよ」
 ダンスにはグループに分かれて踊るところがあり、三人はそのグループが一緒だった。去年は同じクラスだった。
「ナミちゃん……ユリっぺ……」ピリピリしていたナオミの表情が和らいだ。
 一方で、ユリコの心には小さなとげが刺さった。ユリコは自分のニックネームが気に入っていなかった。「っぺ」部分に乙女心が拒否反応を示した。それならユリコちゃんでいいんですけど、と思っていた。
 会場全体が落ち着きを取り戻したかに見える中、三人は練習を始めた。
 リボンダンスと名づけられた五六年女子による演目は、女子の女子による女子のための見せ場だ。点数は関係ない。校庭というダンスフロアで華麗に舞うあたしはもう高学年、お姉さん。そんな気持ちでリボンをまわしたり足をあげたりするのだ。
「この、足あげるところ恥ずかしいよね」ナミが言った。
「と言うより、二人とも足あげすぎなんじゃない」ナオミが乱暴にリボンで二人の足を指し示す。
「そうかな」ユリコは言った。そうとは思えなかった。ていうかナオミあがんなすぎじゃない? だった。
「うん、絶対あげすぎ。限度があると思う。しかも、二人に横でそんなに足あげられちゃうと、あたしがあんまり足あがらないみたいに見えるから」
「でも、先生に足は高くあげるって言われたよ」ユリコは食い下がる。
「それはそうだけど、そこはやっぱりそろえる方がキレイに見えるでしょ。ちょっと試しに、一回、あんまりあげない感じでやってみよ、じゃあ、第一部終わりまし……た、グループのところに集まりまし……た、並びまし……た。せーの」
 ナオミの多分いらない流れの確認のあとで、ユリコは足をさっきよりほんの少し上げないようにして踊り始めた。
「ちょっと一回止めて」ナオミがすぐに止めた。
「ユリっぺ、まだあげすぎ。ナミちゃんはそれぐらいでいいと思う。オッケー」ナオミが言った。
「あたしはこれくらいの方が恥ずかしくなくていいかも」ナミが笑う。
「でも、ここが見せ場だし、やっぱりもっとあげたい」ユリコは納得がいかない。
 ユリコは新体操をやっていたせいで足がよくあがる。だからこそ「ユリっぺ」と自分のイメージが合っていないのではないかと思っていたのだ。
「ユリっぺ、それはちょっと単独行動だよ。イエローカード」ナオミが言う。
「そうかなぁ」ユリコは感情を押し殺して言った。イエローカードって何よ。
「そうよ、絶対そう。それに、足あげるのが恥ずかしくないっていうユリっぺの感情もちょっとあれだと思う。普通恥ずかしいもの」
「でも、あたしは新体操やってるから」
「ユリっぺは新体操で麻痺しちゃってるのよ」ナオミはそう言いながらリボンをクルクルと回した。「こんなことばっかりしてるから」
「何よそれ」
 ユリコは新体操に関しては五年間やってきた誇りがあった。ピアノの才能がゼロなので新体操に乗り換えたのだ。新体操の才能は自分で言うのもなんだけどそこそこあって、だから、このリボンダンスでは自分の持ち味を最大限に発揮できると思っていたのだ。
「新体操は関係ないでしょ」新体操を馬鹿にされると、黙っていられなかった。それに、ナオミのおばさんみたいな言い方が気に入らなかった。
「ごめんユリっぺ、熱くならないで。ね、ユリっぺ」ナオミはユリコの剣幕に慌てた。
「ユリっぺ」ナミもユリコをなだめる。
「ユリっぺ、あたし言い過ぎた。ほんと、ユリっぺ」
「ユリっぺ、ね、ユリっぺ、ナオミちゃんも謝ってるから」
 ユリっぺユリっぺって!
 にわかに熱くなったユリコだったが、その時、背後から大人びた声がした。
「あなた達、感心ね」
「月野先輩!」ナオミが叫んだ。
 月野サヤカは学校の女子のほとんどが憧れる六年生だった。白い、しかし健康そうな肌と、白い体操着、白い帽子がイメージとばっちり合っている。紺のブルマがそれらを引き締めている。月野サヤカに白い帽子をつけさせるために、クラスがずっと1組だというのは有名な話だ、本当かどうかはわからないけど。前髪のオシャレな出し方もローティーンには実に参考になる。練習でもみんなの手本として先生に言われて前に出て踊るなんてことがよくあって、運動も抜群なのだ。
「すごく偉いわ」
「先輩、あの、足をあげるところなんですけど、これって、みんなで揃えた方がいいんですか。それとも、みんな、バラバラになっても、精一杯あげた方がいいんですか。あたしはあげたほうがいいと思うんです」ユリコはたまらず訊いた。
 しかし、ユリコは月野サヤカが気にくわなかった。ちやほやされちゃって何よ、と思っていた。しかし、この際、利用するほかない。自分も足がよく上がる先輩は、だからこそ、きっと、上げるべきだと言うだろう。そうすれば、月野先輩に憧れてるナオミをぎゃふんと言わせられる。
「そうね」
 月野サヤカは優しく微笑んで、ふと顔を空へ向けた。首キレイ、とユリコは思った。すぐに、別に首がキレイだからなんだっていうのよ、と自分で否定した。
 月野サヤカはしばらくそうしていた。可憐なその姿は、間が空きすぎていることを気にさせなかった。しかし、間は空きすぎだった。
 ようやく、月野サヤカがユリコの方を見て微笑んだ。ユリコもつられて笑った。あたしに賛成なんだ! という期待が爆発した。
「それは先生に訊いてみて」
 月野サヤカに欠点があるとするならば、成績はあまりパッとしないし、活発に意見を言うほうでも無いということだった。才色を兼備していないということだった。さっきの間は、ぼんやりしている子特有の間だったのだ。



●シンイチはここにいた

 三船シンイチは県境の川までやってきた。夕方になればジョギングや犬の散歩でにぎわう堤防の舗道を三歩で越え、坂を駆け下り、なぜかそこに集まっていた鳩をビビらせて散らし、大きな橋まで緩やかに続いて見える河川敷の、川と堤防を隔てる背の高いススキの間に走る小道を抜け、その奥に細く開かれた岸でようやく止まり、疲れた体は自然と膝に手をついて下を向いた。息が切れた。
 シンイチは大きな呼吸をしながら腰を下ろし、流れているかもわからないような穏やかな川を見ていた。遠くてわからないが、鴨みたいなのが浮いている。少し下流の川辺には、杭が何本も出ている。雲は一つも無い。向こう岸の河川敷には、左の方に大きなゴルフ練習場があって誰もいない。両側に並んだ打つ場所を挟んでぽっかり空いた場所の隅に、後ろに大きなトンボと網をくっつけたような軽トラックが止めてある。あれでボールを集めるんだ、とシンイチは思った。右には野球のグラウンドがあって、こっちも誰もいない。ホームベースの後ろのフェンスの右上隅がはがれている。ファールボールがそこを通るのをシンイチはなんとなく想像した。大変なことをしたと思った。
 しかしなんだろう、ここまでの展開は。実に胡散臭い。こんなにいいとこどりの運動会があるだろうか。いったいなんだこれは。少年漫画のように劇的なことが起こり、それでいて別に何も起こっていない。あれよあれよと自分がヒーローになった。先生は「みんなが主役!」と言ったではないか。それなのに、見に来た人も、生徒も、先生も、何かの力に引っ張られるように自分を担いだ。わっしょいわっしょい的な動きを見せた。まるで、それが一番いいみたいな顔をして。それは何の力だろう。みんなにそれを望ませたのは何だろう。それは、そうだ、それこそ少年漫画の話が進んでいくようなパワーだ。都合のいい、だけど親しんできた、締め切りに追われながら打ち切りに怯えながら採用されてきた物語の力だ。いや、もっともっと昔から、みんながみんな、きっと何かをなぞってきたのだ。みんなの中にある何かの記憶が呼応して、運動会も、他のあらゆることも進んできたのだ。そうじゃなきゃ、こんなに色々なことにみんなが一緒に喜べるはずがない。同じような反応をして、同じような喜びを分かち合えたり出来るはずがないんだ。「みずから物語を書く勇気がないために、他人の物語を(何らの正当な理由もなく)偽造し、歪曲して楽しんでいた、小心な若者の手すさび」をみんなでやっているのだ。だからこそ、騎馬戦で拍手を浴びるのは大山先輩じゃなくて自分になったんだ。自分の活躍をみんなが求める何かの力が働いていたんだ。僕は何もしていない。ただ目の前にある帽子を手に取っただけだ。みんなにもそれはわかっていたはずだ。それでも自分を褒めそやしたんだ。こんなことになった今だって、みんなが自分を心配しているかどうか怪しいものだ。毎週毎週主人公を見守っているような顔をしながら、ピンチになって「面白くなってきた」と言うのが読者なんだ。みんなは自分が逃げることを、心のどこかで期待していたんだ。そうなって、心底、ワクワクしているに違いないんだ。僕はこんなにモヤモヤしているのに。でも不思議だ。それならば、自分はそれに抗えたはずじゃないか。自分はなぜ走り出したんだろうか。なぜ、がっかりさせない期待に応えてもう一盛り上がりを拵えるようなことをしたのか。逃げたのか、それとも、その中へ飛び込もうとしたのか。どっちなんだろう。わからない。大体、ちくしょう、都合がよすぎるのだ。180センチの小学生が二人もいるだろうか。一体全体どうなっているのか。この世界は全部、ちょっと頭がおかしいんだ。
 シンイチはそういうようなことを思いたかったが、それは無理というものだった。そんな知識があればシンイチはそれを思うことが出来たはずだが、そんな考えは知らなかった。ボルヘスなんか読んでいるはずがないし、だいたい読んでたら気持悪いし、引用したらもっと気持悪いよ! とにかくそこは小学四年生、考えは少しもまとまらない。似たような断片的な思いは言葉になり得ずに頭の中で蟠り、くすぶっている火のように煙ばかりが出てきて、ますますモヤモヤしていくばかりだった。
 これからどうしよう。
 はっきりと心に思えたのは、そんなことだけだった。
 ガサ、ガササ。
突然、ススキの乱暴にこすれる音が聞こえて、シンイチは息を潜めた。
 音は絶え間なく続く。動物じゃない。シンイチは直感的に、別に思わなくてもいいようなことを思った。少し上流の方で、誰かが、ススキの森を抜けて川岸へやって来る。シンイチは身を隠そうとはしなかった。何も考えずにただその人物を待った。音はどんどん大きくなってくる。
 やがて、隙間なく並んでいるように見えるススキのわずかな隙間の遠くに、白い体操服が見えた。シンイチはその体操服によく知っている二文字が歪んでいるのを発見して、救われたような気分になった。



●ピアノレッスン

 ダーン!
 本多ユリコは『ねこふんじゃった』を歌いながら弾き始めたが、自分的に一番気持ちよく歌える「ふんじゃっふんじゃっ」のところで早々にミスをし、腹を立て、そのまま全十本の指を鍵盤にたたきつけた。音の低いところを狙った。
「無理!」
「あきらめないでユリコちゃん。それとね、そこの歌詞は、ふんじゃっふんじゃっ、じゃなくて、ねこふんづけちゃったら、よ。そのあと、ひっかいた、よ」
「ふんじゃっふんじゃっふんじゃった、って歌いたいの。あたし歌いたいの」
 先生はそんなことを主張する小学一年生を受け持ったことは無かったので、黙って認めるほかなかった。
「先生、あたしには才能が無いんだわ」
「そんなこと無いわよ。大丈夫。一生懸命練習すれば大丈夫」
 先生はユリコの肩を包みこむように抱いた。励ます時はこのポーズが一番効果的であることを先生は知っている。しかしユリコには効かない。
「だって、いつになったらあたしは、ねこふんじゃった以外でこの黒いところを使う曲を弾けるようになるの?」
「それはもう少し」
 ダーン!
「ねこふんじゃったは難しそうに見えて意外と簡単って従妹のヒロミちゃんが言ってた。それに、ナミちゃんは一年だけど、もう黒いところを何回かワンポイント的に使う曲を弾いてる」
「ナミちゃんは幼稚園の時からピ」
 ダーン!
「あたしは一番出来なきゃ気分が悪いの! 一番じゃないなら意味が無いしつまんないの! みじめなの!」
「でも最初からうまい人なんて」
 ダーン! ダーン!
「先生はもう上手だからそんなこと言えるのよ!」
「ユリコちゃん」
 ダーン! ダーン! ダーン!
「あたしはピアノが世界一下手! せ・か・い・い・ち、下手!」
 ダーン! ダーン! ダーン!
「ユリコちゃん!」
「ど・へ・た! ど・へ・た!」
 ダン・ダン・ダン! ダン・ダン・ダン!
 ダーン!
「あたし才能ないから辞めます! これ以上やったってしょうがないの! この楽器場所とりすぎ!」
「ユリコちゃん!」
 ユリコはどさくさにまぎれて楽器本体を罵ってピアノ教室を飛び出した。そのあとお母さんが一回来たが、ユリコ自身はもう二度と現れなかった。



●三船ジュンイチは枯れ草の上に座った

「シンイチ」


「なに」
「凄かったな」


「騎馬戦」


「シンイチ、俺はここまで凄く目立たない感じできたんだよ。本当に目立たなかったんだよ。それは凄かったよ。そしたら、もう六年生だったんだ。今日の騎馬戦も下だったし、五年の時も下だったよ」

「兄ちゃんは目立ちたかったの?」



「目立ちたいとは思ってなかったよ」
「うん」
「それはね、俺が目立っちゃったら、なんか変な感じになると思ったんだよ。自分でそういうもんだって思ってたんだ。それで、お前のこともそうだと思ってた」

「うん」

「でも、今日のお前見てたら、意外と見れるんだ。むしろ、俺が今まで見てきた目立った奴より、ずっと目立ってたよ」


「あの、新潟のホテルのテレビで『大脱走』って見ただろ。あれ、お前、誰覚えてる?」
「スティーヴ・マックイーン」
「だろ。ああいう目立ち方だったよ。そんで、畑中トオルいるだろ」
「うん」
「あれが、あの穴掘る奴ぐらいの目立ち方だよ」
「二番目だね」
「そう」


「兄ちゃんは?」

「俺は多分、あの、お酒をみんなで飲むシーンに映ってるぐらいだと思うよ」


「そっか」

「エンドロールに出るかも怪しいんだ」


「でもな、シンイチ、映画じゃないんだよ。そうじゃないんだ。お前に考えて欲しかったのはそういうことなんだよ。どうして映画みたいに目立つとか目立たないとか主役だとか脇役だとか考えるのか、ここに来る途中に俺は考えてたんだ。そして、ここでどうお前に話すとかも考えてたんだよ。お前はそういうことで悩んでるんじゃないかって思ったから。だろ? 今のところ計画通り、順調だよ」



「とにかく、そういうことじゃ無いって、俺は思ったんだ。俺は俺で六年間、みんなと同じようにやってたんだ。こんなことを言うのは恥ずかしいけど、目立たない人って思われてるのだって、俺は知ってるんだ。でも、俺のことなんて誰がわかるっていうんだよな。俺がどんな風にものを見てるのか、誰にわかるんだ。運動会を見ていたって、俺は俺の見方でしか見ることが出来ないし、考えることが出来ないんだよ。なのに、どうして誰かの考えに邪魔されなくちゃいけないのか」


「お前が出て行っちゃって、お前がいる場所の検討がついたのは俺だけだって思った時、俺は凄く、自分が目立ってるような気がしたんだ。誰かを見返したような気がした。誰もそんなこと知らないのにさ」
「うん」
「それは、目立つとか目立ってないとか判断をするのが、突き詰めれば、全部忘れられれば、俺にとっては、多分だけど、俺しかいないからだよ」

「うん」





「客観的って、お前、わかる?」
「うん」


「あのさ、そういうことを考えちゃうと、やっぱりおかしくなると思うんだよ。先生なんか、そんなこと言ったりするんだけどな。物事を客観的に見る力とかなんとかさ。なんか、信用できないよな。弟の考えだってちょっとしかわからないし、自分の考えだって同じもんだよ。なんとなくそんな気がするぐらいにしかわからないんだ。言い方を変えればわかったように見えるんだ。なんとかである、みたいなさ。でも、全然わかってないんだ。なのに、他の人が見るみたいに考えなさいなんてさ」


「兄ちゃん」
「ん?」
「僕も、あの、そういうこと考えてたんだ。なんだか、みんなの中にあるような決まりとか、誰でもないものの見方とか。誰でもない人がものを見て考えるようなことって言うのかな」
「ああ」

「それが、みんなが考える、他の人の考え方なんじゃないのかなって。でもそれって、僕の考えと違ってきちゃったりすることがあるんだ。たぶん、同じようなことだと思うんだけど」
「ああ」


「でも、やっぱりよくわかんないや」

「俺もそんなにわかってないんだ。さっき自分の頭の中で考えてる時は、凄くわかったような気がしてたんだけどな。ここに来て喋り出したら、途端に忘れちゃったよ。ていうか、どう言っていいのかわからないんだ」
「うん」








「兄ちゃん」
「ん?」
「運動会、どうなってる?」
「中断だよ。お前のせい」

「僕、戻るよ。一緒に戻る」



「兄弟で目立つな」
「みんな、そう思うよ」




「また、ここに釣りに来ようね」



●組体操

 6年2組の沢野ユウジの見せ場はそこだけだったといっていい。徒競走はビリから二番目だし、騎馬戦では上になっているがみんなが一番注目していない場所で取られるし、お昼はぼっとしていて思いっきりおにぎりのアルミホイルをかんでブルーな気持ちになった。いいところがなかった。それに何より、一昨日、飼い猫のミックがこの世を去っていた。
 ユウジは泣いて泣いて、それから、世界の全部が張りぼてのように見えた。ミックがこねまわして遊んでいたタオルは、お母さんが片付けてしまった。でも、そんなお母さんもミックが好きで入っていた籐の籠は片付けることが出来なかった。何年か前、ミックが一週間帰ってこなかったことはあった。その時は、とても心配でたまらなかったけれど、こんな気持ちにはならなかった。あのまま戻ってこなかったとしても、こんなに悲しい気分にはならなかったとユウジは思う。
 ミックはもういない。何を思おうと、その前提が雨の日の「今日は雨なんだ」という感じのようにのしかかってくる。何をしても、気を抜くたびに、ミックというもういない存在がこの世にせりあがってくる。僕の中のミックが。でも、一昨日までは僕の中のミックが、そこにいる、どこかにいるミックと結びついていたけれど、今は違う。ミックは河川敷に埋まっていて、僕の中のミックは生きているままだ。
 だから、誰が一番上になるかでもめた、五・六年生男子組体操の四段タワーのことなんて、ユウジはどうでもよかった。自分の背が一番低くて二番目に体重が軽いことも、貧ジャクノスケが貧弱すぎて無理だということもどうでもよかった。どうして自分に一番上になる気が無いのに、山田君は凄くやりたがっているのに、山田君は自分よりほんの少し大きいだけなのに、山田君の方が運動神経はずっとあるのに、自分なのだろう。結局、先生が思っている通りになったのだ。練習では、一度しか立ち上がることが出来なかったし、顔はあげられなかった。それでも先生は自分を代えなかった。
 ミックはもういない。
 ぼんやりしていても、倒立やサボテンなどの組体操を自分がこなすのは変な気分だった。ミックが死んでしまっても、ユウジが練習で覚えた記憶はそのままだった。考えていなくても、その時が来れば体はその通りに動くのだ。
 長い笛が鳴らされるたびに拍手が校庭を包み込み、それが何度か続いたあと、タワーを作る時がくる。
 一段目、太った子とがっしりした子で形成される一段目。そのうちの二人、野本ナオユキと大山キョウゾウが極端に腰を屈めて他の子とバランスを取る。そこへ二段目が登り、三段目が登る。山田カズキは二段目だった。
 ユウジは誰かの背中に足をかけて登った。一番上で両手をついてしゃがみこんでバランスを取る。まだそれほど高くない。
 ミックはもういない。
 笛の音。一段目が立ち上がった。ぐんと高さが上がる。
 僕はミックが死んで凄く泣いてから、どうして泣き止んだんだろう。まだこんなに悲しいのに、どうして今は泣いていないんだろう。
 笛の音。二段目が立ち上がった。拍手と歓声があがる。何度やっても高いし怖い。
 ミック。猫の名前を呼んでも、そんなことを考えていても、どうしようもなく足は震えた。高い。怖い。
 笛の音。三段目が立ち上がる。拍手と歓声はさらに大きくなって、高さも物凄い。見上げる先生の体が見えない。
 長い笛の音。立ち上がらなきゃいけない。
 膝が笑い、へっぴり腰になるのが自分でわかる。でも、立ち上がらなきゃいけない。笛が鳴り終わった。足が頼りなさそうに震えながら、伸びたのがわかる。少しずつ、上体をあげていく。そして、最後に顔が上がった。何百の小さな顔が、その隙間に塗られているカラフルなビニールシートが、黒いカメラが、青黒いウサギ小屋の屋根が、どれがというでもなく目に飛びこんでくる。誰もの拍手がチラチラと瞬き始めて、その音が、高いところでスースーしている風通しのいい体中に迫ってくる気がする。誰かのお父さんが何か叫んでいる。一瞬足が震えているのを忘れたユウジはさらに顔を上げた。見たことの無い高さから、学校の真ん中、校庭を見下ろすような大時計が見えた。その長い針が重たそうに動くのを、ユウジはどういうわけか期待して待っていた。拍手はまだ聞こえている。



●綱引き練習おわりで

 特に確認すべきことが無い綱引きの練習は一度だけだった。
 野本ナオユキは巨漢を生かして綱を巻き取ると、普通一人で持つもんじゃねえよ感あふれる重量にふらつきながら、一人倉庫へと向かった。
「野本、手伝うぜー」
 振り返ると、そこには吉岡シンがいた。
「いいよ、一人で運べるから」
 野本は地面に引きずっていた綱の先を自分の首にかけてまた歩き出した。
「そんなこと言うなよなー。ふらふらじゃんか。つうか先生に言われたんだよ。手伝ってやれって。だから、手伝ってやらないと逆に怒られちゃうんだよ」
 横に並んで綱に手をかけ、へらへらしている吉岡の顔を野本はじっと見た。
「おい、俺も手伝うよ」
 今度は二人で振り返る。そこには大山キョウゾウがいた。
「吉岡、お前は帰っていいよ」
「え? なんだよ野本。三人でやればいいじゃんか」
 改めて二人を見るとやっぱりでかい。吉岡は二人の顔をみようとしたが、見上げるには日差しが強すぎた。いったい何を食ってるんだ。おかわりを凄くするんじゃないか。二桁するんじゃないか。
「俺たちで充分だ。それに、吉岡は事務係だろ」野本が言った。
 吉岡の事務係魂がそこで目を覚ました。次の授業は算数ということを思い出した。さらに、先生が使うあのでかい三角定規が頭に浮かんだ。あのでかすぎる三角定規、あれは粉にまみれている。あれがピカピカになっていたら、先生は、あら? と思うに違いない。あら? と思ったら、その理由を知りたがるはずだ。「誰か掃除してくれた人」と言うに決まってる。先生はみんなの前で誰かをほめるのが好きだから。そこを俺は黙っていよう。それが事務係だから。
「そうだな。俺、事務係だ」
 吉岡は走り出した。ついでにあのでかいコンパスも掃除してあげよう、という思いがほとばしる。あのコンパスでかすぎだろ。
「大山も行っていいぞ。俺一人で平気だ」
「いや、先生に手伝えって言われたんだ。それに、いくらお前でも一人じゃ無理だよ。先生だって、三人くらいで持ってるもんなんだから」
 大山は野本の肩から綱を外して持った。野本の体が急に軽くなる。
 倉庫は開いていた。限界まで体を縮めて野本が先に入る。途端に光が遮断されて倉庫の中は薄暗くなった。大山も続いて入ると、今度は息苦しい。大きく息を吸うと、カゴに詰め込まれたボールが放つ、ゴムかなんか知らないけどなんだこれくっさ、そういう匂いが鼻をつく。
 薄暗い中で、野本は綱を肩にかけたまま、置こうとしなかった。
「大山」
「なんだ」
「今から綱に切れ込みを入れる」
「どうして」
「運動会を面白くするためだ。切込みを入れて本番でみんなが引っ張れば、途中で切れるだろう」
「面白くする?」
「そうだ」
 大山は綱を持ったまま、少し考えていた。
「いいぜ」大山はでかい体の割に子供らしい笑顔をみせた。「どうやるんだ」
 勉強が出来て本もよく読む大山は、偶然にも、昨日『トム・ソーヤーの冒険』を読み終えたばかり、気分は盛り上がっていた。トム・ソーヤーからの影響でいっぱいの頭は、何かを演出して大人も巻き込むようなタイプのいたずらに一も二も無く大賛成なのだ。
「ちょうど真ん中にガムテープを赤く塗ったのが貼られてある。それを剥がして、切れ込みを入れる」
「切るものはあるのか」
「今日の授業が始まる前に、ここに隠しておいた」
 野本は倉庫の奥までいってしゃがみこみ、しばらくごそごそやっていたが、やがて立ち上がると、その手には大きめのカッター、ガムテープ、赤のマジックがあった。二人は作業を始めた。
 こびりついたガムテープを取るのはあきらめて、野本はその上から切り始めた。「それに、この方が切り口が目立たない」と野本は言った。厚く編みこまれた綱の繊維が、一本一本すり切られていく。息苦しさと二人いる必要無さに、大山は倉庫の出入り口に立って見張りをすることにした。
 作業が終わった。野本はじっとりと汗をかいている。休み時間はそろそろ終わってしまうだろう。
「他にもいくつか考えているんだ」
 そう言いながら、先生にはやっぱり怒られたくない野本は全力疾走で走り出した。大山もあとに続いた。日常生活でも全力疾走を多用するその姿は、間違いなく小学生だった。



●大山キョウゾウの読書ノート

九月十二日
トム・ソーヤーの冒険マーク・トウェイン

 この本は、題名の通り、トム・ソーヤーという男の子が様々な冒険をする本です。ぼくは、トムになった気持ちでどんどんと読みすすめました。凄く面白くて、ぼくはすっかりこの本が好きになってしまいました。中でも、ぼくが一番好きなのはトムがペンキ塗りをほかの子にやらせようと知恵をしぼる場面で、トムはとても頭がいいと感心しました。この本は昔からある本で、お母さんも子供の頃に読んだと言っていました。ぼくはそんな昔からあるなんてすごいと思いました。いいものは残ると誰かが言っていたけど、本当にその通りだなあと思いました。
この本に出てくる宿無しのハックを主人公にした本もあるということなので、今度読んでみたいと思う。最後に、貸してくれた野本君に感謝したい。



●念願のウイング

 山田カズキは入場門で武者震いしていた。すぐそばでは、畑中トオルと相沢ソウイチロウが何やら喋っている。辛酸の味がどうで鉄の味だとか言っている。
「望むところだよ、相沢。僕をしびれさせてくれよ」
 かっこいいじゃんかよぉ、トオル。でも、俺だっているんだぜ。
 いよいよ入場、カズキは立ち上がってトラックを走り出した。
「やっぱりいるぜ!」
「一人は絶対いるんだ!」
 父兄が色めき立ったのは、沢山の足の中に何もはいていない裸足が見えたからだ。それはカズキの足だった。
 トオルばっかりに目立たせるわけにはいかないからよぉ。トラックを一周半する間、カズキは頬がゆるみそうになるのを、必死でクールに抑えていた。
「ようい」
 パーン。
 第一走者がスタートすると、四人の走者が注目を集める形となるのは当然だった。
 しかし、待機場所に集まるカズキは相沢の動きを見逃さなかった。相沢は第二走者がバトンを受け取って飛び出していくと、トラックを横切って、目の前にあった校長先生が挨拶する台の下へもぐりこんだ。
 な、なにやってんだよぉ、相沢のやつ。早く戻ってこいよぉ、あ、あ、あ、あれはぁ!
 相沢が手に持っているのは、あの超カッコいいウイングだった。それを背負いながら、相沢はまたトラックを横切って、一番後ろに並んで腰を下ろす。気づいた父兄が声をあげる。
「なんだ! 赤組の赤チームの鉢巻をしたアンカーの子は!」
 カズキは半笑いでそれを見つめていた。トオルが相沢に何か声をかけているが、よく聞こえない。ただ、赤いてかりと、腕にかけるところを限界まですぼめたところから醸し出されるある種の凛々しさに目を奪われるばかりだった。
「これは、ウイングだ。空気抵抗を少なくするんだ」相沢が言った。
 知ってるよ相沢。そうだよ、空気抵抗がすげえんだよぉ。スポーツカーには大体ついてんるんだよぉ。それ背負ったら、相沢お前、どんなに速く走れちゃうんだよぉ。それで裸足になって、裸足+ウイングになったら、どんな相乗効果が生み出されんだよぉ。
 相沢と目が合っても、ウイングを持っていない自分には「かっこいいよな、それ」と言うのが精一杯だった。手首と足首を高速でひねりながら、カズキは我を忘れていた。
 見とれているうちに、あっという間に自分の番がやってきたようだった。位置につきながらも、心にある思いは一つだった。背負いてぇ、抜群に背負いてえよぉ。
 だから、一位でスタートした相沢がウイングを投げた次の瞬間、カズキは無意識に、受け取り役の橋本ユウスケから強引にぶんどっていた。そして背負っていた。多少スタートが遅れたが、そんなことはどうでもよかった。四番手の白組のチームとほぼ同時にバトンを受け取って、走り出した。
 風のようだった。ランドセルの金具のガチャガチャという音がリズムを刻む。空気抵抗が減ってんだよすげえよぉ。そう思っているうちに、さっきまで見えていたトオルの背中はもう無かった。俺がトオル抜かすなんて、やっぱすげえよぉ、ウイング。歓声が遠く聞こえる。
 もちろん、空気抵抗がどうだとか、ほとんど気のせいだった。しかし、カズキは裸足の方が速いと完全に信じられる頭の持ち主だ。ウイングを本当に生かすことが出来るとすれば、それはこの山田カズキ唯一人だった。
 相沢の背中が近づいてくる。
「私のランドセル!」という声が席から出たが、それを背負う者には聞こえなかった。



●もう夜

5年1組の西成ショウはドラクエ?を進めたかった。夕飯を食べている間、お母さんが運動会の話をしたがっているのは何となくわかったから、食べている間は運動会についてあれこれと話をした。でも、食べ終わりそうになったとき、ショウは我慢できなくなった。うっかりと「食べ終わったらゲームやっていい?」と訊いてしまったのだ。お母さんはとても怒って、ゲームをすることを許してくれなかった。ショウは自分の部屋に帰って、あんなこと言わなければゲームが出来たかも知れないと考えた。
野本ナオユキは夕飯の間中ずっと、お母さんと一緒になって、お父さんに運動会の話を聞かせた。一通り聞いて「お前はどうだったんだ?」とお父さんは言った。「楽しかったよ。起こるまではさ、考えてもいないことが起こるんだ」夕飯を食べ終わると、お父さんがテレビで野球を見始めたのでそこにいることにした。よく知らない横浜の選手が難しい外野フライを背走してキャッチするファインプレーをみせて、次の打席でホームランを放った。そのせいでお父さんの応援するチームが負けた。いつもはぼんやりとそう感じるだけだったが、改めて映し出される選手や数も知れない観客を見て、一人ひとりが今の試合について何らかの感想を持っているというようなことを考えると、なんだか途方も無いような感じがするのだった。
橋本ユウスケは夕飯の間中、親と先生の前だけで使う僕という一人称で、とにかく喋った。「見てた時、びっくりしたでしょ。騎馬戦で、四年生が出るんだもんな。その代表、僕」「あのリレーのランドセルのやつ、あれ、もとから僕が受け取る作戦だったんだよ。相沢くんとは、ガンダムの話してから仲いいんだ。僕はあんま知らないけどね。でも、あのウイング取られちゃってさ。そしたらあの人、超速いんだ」「僕が三船君を探しに行くって言って、そのあとみんなも探し始めたんだ」お父さんとお母さんはあんまり口を挟まないでニコニコしてその話を聞いていた。
帰ってお風呂に入り、あがってすぐ、出し抜けに「騎馬戦はあんたの手柄だよね」とお母さんに言われて、大山キョウゾウは照れた。「そうだけど、いいんだ」疲れていたので、夕飯を食べてお風呂に入ってすぐの八時ごろ、ベッドに入った。しかし、いざ目をつぶってみると思っていたようには眠れず、枕元に置いている電気をつけて布団から出た。机の上の本屋のカバーがついたままの文庫本を手に取る。それは『ハックルベリー・フィンの冒険』だった。それを持って、またベッドに寝転がった。
三船シンイチは帰ってきてすぐにテーブルの上の豪華な夕食に気づいた。全ての料理にラップがかかって、集まった水滴のわずかな重みで真ん中が沈んでいる。ラップを少しずらしてくたくたになったフライドポテトを一つつまむと、ランドセルを置いてテレビを見た。夕方のニュースがやっている。いつもと同じニュースに見えた。しばらくしてジュンイチが帰ってきた。「六年生は片づけが多いんだよ」と言って、テレビを見始める。シンイチはあんなに真面目な話をしたのが不思議だと感じると同時に、今、黙って一緒にテレビを見ているのがとても自然なことに思えた。七時前の天気予報が終わると、ジュンイチが「ご飯にしよう」と言って立ち上がった。「うん」と言ってテーブルの片づけを始めると、すぐそこの台所から、どこかリズミカルなレンジのボタンを押す機械音が聞こえてきた。
志田カズマの家の夕飯は、お昼の残りだった。きれいに並んで列ごとに味が分けられていたおにぎりは混ざってしまって、何味か判別できなくなっていた。「俺、梅干いやだよ」と言うと、お母さんが「じゃあこれあんた食べなさい」と食べかけのおにぎりを差し出した。具は鮭だった。「食べかけもいやだよ」と言うと叱られた。カズマはそれを食べ始めた。
 香山ハルナはお父さんとお母さんに連れられて外食に行った。そこはいつも行くファミリーレストランで、ハルナが注文するメニューもいつもと同じ和風おろしハンバーグだった。一通り自分の出た競技についての話題が終わると、「あの、三船君は同じクラスよね」というお母さんの言葉がきっかけで三船シンイチについてハルナは話した。今日のことや今は席が隣であることや避難訓練でなかなか机の下に入らなかったことや教科書を貸してくれたことを話すうちに、お父さんとお母さんの目つきや顔が今までに見たことの無いようなものであるのにハルナは気づいた。自分がシンイチを好きだとお父さんとお母さんは思っているのじゃないかということに考えが及んで、ハルナは話すのを止めた。お父さんとお母さんは何も言わなかった。だから、結局お父さんとお母さんの考えていることはわからなかった。「今日はデザートも頼んでいいぞ」とお父さんが言ったので、大きなパフェを頼んだ。それを本当に食べたいのかわからないのと同じように、自分の気持ちがよくわからなかった。
本多ユリコは帰ってすぐ、夕飯を作るおばあちゃんの手伝いをした。夕飯はカレーだった。おばあちゃんは手を動かしながら「ダンスが、あれ、よかったねぇ」と言った。「ほんと? ありがと」「体操をやってるからかねぇ、やっぱ、ユリちゃんが一番きびきびしてたねぇ」ユリコはみんながおばあちゃんみたいだったらいいのにと思いながら、カレーのルーを割った。「あの、リボンがとれちゃった子は、気の毒だったねぇ」おばあちゃんが言ったので、ユリコはナオミの今にも泣き出しそうな顔を思い出した。それを見た時の気持ちと練習をした時の気に入らない気持ちの違いの理由を、何が自分の思いを変えてしまうのかを訊こうと思ったけれど、どうせおばあちゃんはおばあちゃんらしいことを言うんだろうとわかっていたので黙っていた。みんながおばあちゃんみたいだったらやっぱり困る、とユリコは思った。
白石ナオミは帰ってきてお風呂にも入らず、部屋に閉じこもって、部屋をわざわざ真っ暗にして、ダンスの中盤でリボンがスティックから取れてしまったあの時のことを考えていた。棒だけ持ったまま踊っていた自分の醜態を考えていた。お母さんが慰めに来てもナオミはドアを開けさせなかった。鍵なんてなかったけれど、お母さんはドアを開けなかった。気分転換になると思って音楽をかけた。普段は自分の力になっていると思えていたような曲も、こうして聴いてみれば他人のことも自分のことも考えたことがないような奴がみんなのよく知っているようなきれいごとを集めてこねてとりあえず形のようにしたような素人が作る陶芸のような代物で、こいつは踊ってる最中にリボンがとれたことなんてないんだとナオミは乱暴に思った。寝てしまいたいのに、天井を見ているうちに、ダンスのことをくよくよ考えてしまうのが嫌だった。振り払うように寝返りをうって少し楽になったような気がしたけれど、やっぱり何も変わっていなかった。
4年1組の広岡タツヒコはお父さんとお母さんに徒競走で一番になったことを何度も確認した。一番になれば、新しいゲームを買ってもらえる約束だったのだ。そして、お母さんが訊くままに、同じクラスの三船シンイチについてあれこれと話した。出ていっちゃったあの子、という呼び方をお母さんはした。お父さんは三船という名前を覚えていた。「勉強はあんま出来ないよ」とタツヒコは言った。「先生は何か言ってた?」とお母さんは訊いた。「どういう意味?」「その、三船くんに」「なんでってきいてたけど、黙ってたよ。帰りの会のあと、残らされてた」「それで?」「気になって見てたけど、すぐ帰ってたよ。ほんとすぐだったよ」それ以上何も知らないのに、お母さんはしつこく訊いてきた。うんざりしてきたタツヒコは自分の部屋へ退散し、買ってもらうゲームに思いを馳せた。
 武藤ヨシオは焼き魚に味噌汁などの普段の夕飯に加えてお昼の残りが並んだ食卓に座って、黙って箸を口に運んだ。まだまだ食べられそうなところを止して、「ごちそうさま」と言った。「お風呂は入れるの?」「多分」湯船につかって自分が元気で調子が悪くなんかないことを確認すると、自分は何をしているのかと今更思うのだった。相沢ナツコに言われたことがいつまでもちらついていた。
 相沢ナツコは黒いナップザックをおろすと、自分の部屋で兄が帰ってくるのを待った。しばらくしてから階下で物音や声が続いて、すぐに階段をのぼってくる足音が聞こえた。少し待ってからドアをノックをした。部屋に入り、ガンダムやガンダムに出てくるんだろうけど知らないロボットのプラモが並んでいる棚をひとしきり眺めてから、ナツコは「惜しかったね」と言った。「でも、畑中君には勝ったよね」「そうだな」「なんであの人、あんな速かったんだろうね」「山田な。なんでかな」「ランドセルのおかげ?」「まさか」しばらく間があった。「ほんと、惜しかったよ」ともう一度ナツコは言った。「うん、でもいいんだよ。優勝はしたし。楽しかったし。ランドセル、ごめんな」
 相沢ソウイチロウは空になった水筒をお母さんに渡すと二階へあがった。部屋に入ると、昨日の夜、走るポーズにさせておいた初代ガンダムやザクやグフやシャアザクやギャンなどを直立の姿勢に戻した。着替えを終えた頃、ノックの音がした。妹だと思い「なんだよ」と言うと、すぐに妹が入ってきた。「惜しかったね」と妹は言った。ランドセルのことを謝ると、「全然」と言って妹は出て行った。ほとんど同時に「ご飯よお」という声が聞こえた。
吉岡シンは紅白帽子をなくしたことをお母さんが怒らないのを不思議がっていた。「四年生に取られちゃっちゃしょうがねえなぁ」お父さんが言った。「どうしようもなかったんだよなぁ、あれ」吉岡は体を捻りながら反って、ソファからずるずると滑り落ちた。
沢野ユウジが家に帰ると、当たり前だけれどミックはいなかった。もういないミックを何気なく探そうとする家の中での習慣が行き場をなくして、自分ではどうすることも出来なかった。それでも、日毎にどうしようもなさは和らいできているようにも思えて、運動会のことなどミックが死んでしまったあとで作られた記憶が、ミックが生きている頃とまったく違うもののように感じるのだった。
貧ジャクノスケは足首に包帯を巻いたまま家路に着いた。「あなた、大丈夫だったの」「大丈夫だよ。って保健室で言ったじゃん」ジャクノスケは疎ましそうに言った。「て言うかさ、恥ずかしいから、ああいうの止めてよ。来なくたってさ、いいじゃん」「そんなこと言ったってしょうがないでしょうよ」「まあ、そうだけど」ジャクノスケは包帯をずらして、はがれかけた湿布を押しつけた。
水を飲むと、小さな氷がいくつか口の中にまぎれこんだ。「惜しかったよ」とお父さんに言われた畑中トオルはそれほど気にしているわけではなかった。初めて来た駅前のラーメン屋のカウンターに並んで、ラーメンの話ばかりをした。その店の壁には、凄く辛いらしいラーメンを食べた人の写真が貼ってあって、トオルはそればかり見ていた。お父さんは「ここおいしいな」や「また来ような」と繰り返していた。そんなことも、何も気にならなかった。「いつかさ、辛いの挑戦しようよ」とトオルは言った。お父さんは「そうだな」と言った。どういうわけかはわからないけれど、とても気分がよかった。
月野サヤカは帰ってすぐお風呂に入った。そして、自分の部屋にいるうちに眠りに落ちた。「サヤカ、ご飯どうする?」少ししてお母さんが部屋に来て訊いたが、「寝ちゃう」と言ってそのまま寝てしまった。
佐々岡ショウタにとっては明日の休みにどこへ行くのかというのが重要だった。「動物園がいいかも」と提案はしてみた。「上野動物園。ねえ」お父さんはあまり乗り気でなかった。「じゃあ上野に行って、美術館に行くか」「動物園は?」「絵とかを見ておいた方がいいんだよ」それから、お母さんは知らない外国の人の名前をあげて、その人の絵が好きだと言った。ショウタはそんなものよりキリンの方がよっぽどキレイだと思って、思わず泣きそうになった。
萩村ハヤトはお風呂に入ると、田舎のおばあちゃんの家へ行くための車へ乗り込んだ。「おばあちゃんに、自分の運動会の話をしてあげろよ」お父さんが運転しながら言った。ハヤトは困った。自分のことで話すことなんて特別無かったし、あっても騎馬戦で帽子を取られたとか徒競走で三位だったとか情けないことばかりだったからだ。暗い車内にいると、お昼のことがずいぶん前のことのように感じられた。
帰ってすぐ、山田カズキは自分の部屋に荷物を放り込むとリビングの方へ駆けた。「どうだった?」お父さんとお母さんに訊いた。二人とも、手放しで褒めてくれた。「俺、めっちゃ足速かっただろぉ」「練習すれば速くなるんだよ」お父さんが言った。「夏休みに毎日頑張ったのがよかったのかしらね」お母さんも微笑む。「勉強もそれぐらい頑張ってくれればなぁ」何度も聞いたことがあるお父さんの言葉だけれど、カズキもお母さんも笑った。「でも、二学期の最初に走った時はトオルの方が速かったらしいんだけどなぁ」やっぱあのウイングのおかげかなぁ、とカズキは思った。だから、それを言おうとした。「あのランドセルは何だったんだ?」お父さんが言った。「ウイングだよ、あれ。そんで、相沢にもらったんだ!」カズキは廊下を滑るように部屋へ戻っていった。