堀田よ、フリスビーを投げろ

 「『フリスビーを投げてもすぐ斜めになって、しまいには縦になって遠くへ転がっていってしまいます、とほほ』という自己紹介文を書いたテルオ君も、今や、『大学のキャンパスでフリスビーを友達としている時も、真っ直ぐ飛んでいって、そばを通る女子大生(って大学だから当たり前なんですが)にうま〜いと言われてチヤホヤされるようになりました。これもエンリケコーチのおかげです』なんて嬉しい手紙を送ってきてくれるんだ。みんなもボクに従って練習すれば、フリスビーの一つや二つちょちょいのチョイ悪オヤジ、だよ。よしカモン」
 コーチはそう言うと、一目散に走っていった。僕たちは走ってついていった。そしてコーチが止まったところに集合した。
「いいか、あれを見るんだ」とコーチは前を向いたままで肩越しに親指を立てて指差した。
 そこには、おじいちゃんとおばあちゃんが立っていた。
「あ、ああ! あれは、おじいさんとおばあさん!」「なんてこった!」「誰のおじいさんおばあさんなんだ!」と僕たちは次々に叫んだ。最後のが僕だ。
「さて、今日の練習は、あのおじいちゃんおばあちゃんの間にフリスビーを通す訓練だ。その前にあるあるネタを一つ」コーチは一つ咳払いを入れた。「祖父母の家のことを、なぜか『おばあちゃんち』と言ってしまう」
「すげえ!」「コーチはすげえよ!」「コーチのあるあるには、手が届かねぇ!」「雲の上のあるあるだ!」「雲の上にあるあるあるネタだ!」
「よーし、ボクの才能に驚くのはそのへんにしておこう。では今から、一人ずつ投げてもらう。呼ばれたらまずボクのところまで来るように。まず上田!」
 上田は大きな返事をしてコーチの元へ向かった。上田はそこで何か耳打ちされていた。上田の表情が変わったのを、僕は見逃さなかった。上田の投じたフリスビーは、届かないで地面に落ち、転がっていった。
「どうしたんだよ上田!」「上田!」「上田彰一ぃ!」
 そう叫びながらも、みんなは上田の様子がおかしいことに気づいていた。いったい、コーチに何をささやかれたんだ。
「次、小野田!」
 小野田も同じだった。コーチの元へ言ってから思いつめたような表情になり、フリスビーは見当違いの方へ飛んでいった。
「しっかりやれよ小野田!」「小野田!」「小野田健吾ぉ!」
 それからも、みんなの投げるフリスビーはおじいちゃんおばあちゃんの近くにすら飛ばない。
「次、堀田!」
 いよいよ僕の番。僕はコーチの元へ向かった。
 コーチはすぐに僕の耳元へ口を寄せ、言った。
「堀田、あの老夫婦は今日、結婚五十周年なんだ」
「き、金婚式!」
「そうだ、よし行ってこい」
 そんな、そんなことがあっていいのか。夫婦なのは予測していたけど、金婚式だなんて。ということは、もしぶつければ。金婚式に、知らない奴からフリスビーをぶっつけられたなんてことになってしまう。僕もみんなのように届かないように投げれば、いや、でも、この練習の目的はそんなことじゃない。このプレッシャーに打ち勝ち、見事に間を通し、金婚式おめでとう、って、そう言うことじゃないか。そうじゃないか。
「でやあああ!」
 僕はフリスビーを思い切り投げた。
 しまった! 僕はすぐにそう思った。
 フリスビーは斜めになりながら、一番ケガしそうな角度で、僕から見て右側に立つおばあちゃんの内角をえぐるように、進んでいく。
 おばあちゃんは反応できない。おじいちゃんもフリスビーが目に入っていない様子だ。もうダメだ。ああ。頭だけはやめてくれ。
 バチーン。
「あっ!」と叫ぶ間もなく、猛スピードで一直線に飛んできたフリスビーが僕の投げたフリスビーを弾いた。二つのフリスビーは力無く地面に落ちた。
 僕が振り返ると、そこにはフリスビーを投げ終わった姿勢のまま、前傾姿勢で手を伸ばしたままのコーチがいた。
「すげえやコーチ!」「奇跡だよ、俺たちは奇跡を見たんだ!」「エンリケコーチ!」「ミハエル・エンリケェ!」
 安心するとともに、僕の目から涙が溢れた。その寸前に、コーチがこっちに走ってくるのが見えた。
「すいません! 僕、僕……おばあちゃんに……」
「泣くな、堀田」
「そうだよ泣くなよ堀田!」「立派だぜ堀田!」「金婚式に立ち向かえたのはお前だけだぜ堀田!」「そうだよ堀田!」「堀田邦弘ぉ!」みんなも言う。
 僕はその声を聞いて、更に泣いた。
「安心するんだ堀田。なにしろ、あの老夫婦はただの人形なんだからな」
「ええっ!」僕の代わりにみんなが驚いた。
「よく出来てはいるが、50年前に300万円かけて作った精巧な人形だ。しかし、あそこに向かって思い切り投げられたのは、堀田が二人目だよ」
「コーチ、その一人目ってのは」「誰なんですか」
「テルオだよ。テルオも全く同じように、こうして泣いたんだ」
 みんなが驚きと感嘆の声をあげる中、僕は震えていた。あ、あの伝説の卒業生、テルオさんが。
「お前も、きっとテルオのようになれるよ」
 僕が涙をぬぐってようやく立ち上がると、老夫婦の人形は優しく微笑んでいるように見えた。