ゴー、下條、ゴー

 人生でまだ一度もボートを漕いだことが無い下條。別に行かねえけど、彼女が出来て湖に行くのに備えてボートを漕げるようになっておきたい、別に行かねえけど。とにかく、湖があってボート乗ろうよとなった時に、自分がボートを漕げるのか漕げねえのかは把握しておきたい、漕げないからという言い訳の真実を知り尽くしておきたい、その現場でふと思うもしかしたら俺漕げるかもという慢心が招いてしまう惨事がこわい、彼女にみっともないところはみせられない、貸しボートのおっさんに何か言われたくない、そんな女々しさが下條を覆い尽くした時、下條はスワンボートに乗っている。
 ここまでならいつもの下條だ。しかし、今日の下條は一味違った。昨日までの下條がしお味なら今日の下條はBBQ味。別に何を焼いてるとかではなく結局タレの味ですという大雑把な丼勘定、いや丼感情で突き進め下條。ゴー、下條、ゴー。
 下條の乗ったボートは、ゆっくりと貸しボートのおっさんを離れていった。さようならおっさん。しかし悲しんでばかりもいられない。このまま、水泳でいうとケノビ状態で進んでいけるほど湖は甘くないのだ。漕がなければいけない。
 果たして俺は漕げるのか。下條は思う。
 下條はイチかバチか漕いだ。そして漕げた。
 下條は思った。ああ、俺にはボートを漕ぐなんて絶対に出来ないと思っていた。多分、俺がやったら水中をあんなにうまくやれなくて、オールが横向きになって全然漕げてなかったり、途中で水中から飛び出してガポッとかなるんだろうなあと思っていた。左右ばらばらになるんだろうなあと思っていた。どっちだけを動かせばどっちに回転するとかそういうことに頭もまわらないんだろうなあと思っていた。
 でも、下條のボートはスイスイと進む。右に曲がったり、左に曲がったり、ジグザグもできたり楽しい。下條は思う。俺には、こういうまだ見ぬ才能というには大げさだけど、可能性が沢山残されているんだ。出来ないと思っていることが多すぎる。
 下條はボートの上からお母さんに電話をした。
「もしもし」
「お母さん?」
「そうだよ」
「俺には可能性がいっぱいあるんだ」
「……」
「ホントだよ。絶対に無理だと思ってたボートが漕げたんだ」
「……」
「お母さん」
「ツトム」
「なに」
「そのボートに帆を張るのさ。そして大海原へSail for dream. 今度野菜送ります」
「お母さん、俺はなる。海賊王に、俺は――」
 電話はもう切れていた。下條はTシャツを脱ぎ、オールの広がりの下に結びつけ、それを立てた。下條は帆と旗を勘違いしていたが、そんなことはどうでもよかった。Tシャツには運よく英語でなにやらごちゃごちゃ書いてあり、何より一つのスカル(ドクロマーク)が大きくプリントされており、それが見えてカッコ良かった。下條は新しい自分を見つけることができて、ワンピースを最近読み始めて本当によかったと思った。