竜王戦キックオフ

 二人の指し合いは虚々実々、抜き差しならぬきわまで来ていた。トモキ竜王の持ち時間が着実に、一秒一秒と減っていく。
 トモキ竜王はため息をつき、くるりと盤に背を向けた。そしておもむろに膝を立てた。
 誰もが、帰る、と思った。トモキ帰る、と思った。
 ところがどっこい、トモキ竜王は二度見する時の二度目の振り返りの速さで振り向いた。そして盤に向かって、熱いものを触った時の戻る時のスピードで手を伸ばす。トモキ竜王の人差し指と中指の間には、将棋で一番ややこしめの動きをするという桂馬がいつの間にかおさまっていた。
「王手!」
 どこに置かれたか言ったり秒数を数えたりする係りの人でさえ、息をのんだ。
 別室のモニターで対局を見ていた報道陣が沸いた。
「振り向きざま王手! トモキ竜王の振り向きざま王手だ!」
 ヌンデバ七段は周章狼狽した。ウソだ、絶対帰ると思ったのに。間違いなく帰ると思ったのに。そこから振り向きざまに王手とは、こいつ、大体どこらへんに盤があるとか、盤上がどうなってるとか、そういうことを全部把握しているに違いない。
 しかし、ヌンデバ七段だって、山梨学院大学に留学して駅伝部で友達が出来ないのでインターネットで将棋ばかりしていたらあれよあれよで七段まで上り詰めた変り種だ。何より身体能力には自信がある。視力もいい。負けるわけにはいかない。
 ヌンデバ七段は、左手に持ち駒の歩をはさんでいた。報道陣は見逃さない。
「あれ、ヌンデバの利き手は右手のはずだろ」
「そうだ! 棋士名鑑にも書いてある!」
「趣味は『ふりかけ作り』だ!」
「野郎、何を企んでるんだ!」
 ヌンデバ七段は自分から見て右上の方に歩を置こうと手を伸ばした。しかし違う、置かない。ヌンデバ七段はその自分の左腕の下を通すようにして、右腕を伸ばしていた。そして、自主的に動くことが少ないとされている左下の香車を二つ分、そっと進めた。
 一瞬、それを見ている誰もの動きが止まった。香車の動きに気付かず、ヌンデバ早くやれよ、と思っていた。トモキ竜王でさえ思っていた。
 しかし、どこに置いたか言ったり数を数えたりする係りの人は、それが仕事なのでちゃんと見ていた。プロフェッショナルだ。どこに置いたか言い、トモキの残り時間が減らされ始める。トモキはうろたえた。
 目の肥えた報道陣は、もちろんヌンデバの動きを見逃していなかった。振り向きざまの時よりも盛り上がっていた。
ラボーナだ!」
「こんな高等テクがこの舞台で見られるなんて!」
「こいつぁ連続写真解説の特集を組むしかない!」
 さっきはなんとなくうろたえたトモキ竜王だったが、さすが竜王だった。右手を上げて、アッピールした。
「王手放置だ!」
 言うや否や、トモキ竜王はマントを翻して和食ファミレス、夢庵の座敷席を出て行った。ヌンデバ、お前は技に溺れたんだよ!