Mさんは相手にせず、ただ黙って笑っている。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかったのである。いい文章を読んで、ほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを表するよりは、どんなにいい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。
――(太宰治『津軽』 新潮文庫P85)

私は決して、たべものにこだわっているのではない。食べたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者はわかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらって、そうしてそれを大皿に載せて眺めたかったのである、食う食わないのは問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのである。
――(同・P91)

「なぜこんな騒ぎになったか、教えてやろう」ハムラビはニューヨークのある会社から郵便で取寄せているエジプト煙草に火をつけながらいった。「きみが考えているようなことが理由ではないんだ。別の言葉でいえば、町の人が貪欲だからというわけではない。彼らをそこに惹きつけるのはそこに謎があるからさ。この硬貨を見たとき、人はどう思う? わあ、たくさんある! いや、そうは考えない。いくらあるだろう、と考える。これは深遠な問いなんだ、まったく。人によって意味が違ってくるからね。わかるかな?」
――(トルーマン・カポーティ「銀の壜」『夜の樹』川本三郎訳 新潮文庫 P198)

「ニワトリの脚をとっておいたわ」そういって彼女は、パラフィン紙でくるんだ包みをわたしに渡してくれた。「それに七面鳥のあなたの好きなところ、軟骨のところよ」
――(トルーマン・カポーティ「感謝祭のお客」『夜の樹』川本三郎訳 新潮文庫 P279)

さびしいのは他人に顧みられないからではなく、自分で自分の事を忘れてしまうからで、一週間前、一月前、一年前、どこでなにをしていたか誰と会ったかまったく覚えていない。
 なにもない過去。
 他人にとって自分の人生がなかったことになるなどというのはそれは人間それぞれに忙しいから当たり前であるが、自分にとって自分の人生がなかったことになるというのは実に悲しいことだ。

――(町田康真実真正日記』講談社 P7)

辺多子さんが「犬とチャーハンのすきま、というのはどうでしょう」と提案した。相変わらず訳の分からぬことを言う人で、「どういう意味だ」と尋ねると、「犬の横にチャーハンが置いてあるのよ。そのすきまのこと」と言って、相変わらず訳が分からない。でもなんとなくモダンでかっこよい感じがしたので、じゃあ、これにしようということになってバンド名は、「犬とチャーハンのすきま」になった。
――(同・P68)