「そう、結婚したし、今もしてるよ」つまらない話を始めたものだと後悔する。大きな泡が、ひどく大きくなって、ウサギの心臓におしよせる。子供のころ土曜の午後遅くどこからか帰ってきたときに、突然、これが――木とか舗道とかが――人生なのだ、それが現実にある唯一のものなのだという考えがうかんだことがあったが、いまの気持ちがそれに似ている。
――(『走れウサギ(上)』 ジョン・アップダイク/宮本陽吉訳 白水Uブックス P97)

エクレスは、この女はユーモリストだな、と感づく。ユーモリストってのは、信じてることと信じてないことをごっちゃにするんで困る。効果をあげるためには、どっちでも使う。
――(『走れウサギ(上)』ジョン・アップダイク 白水Uブックス P233)

善は内にあり、外には何もない。重さを比べようとしたさまざまなものには、重さなんかない。突然、自分の内面がとても手ごたえのあるもの、入り組んだ網のまんなかで純粋な空白を作っているのを感じる。おれにはわからない、とルースに言いつづけた。何をすべきか、どこへ行くべきか、何が起こるのかわからない。自分にはわからないという考えが彼を無限に小さく、捕らえることができないものに変えてしまうような気がする。その小ささが、ある広大さのように彼の心をみたす。
――(『走れウサギ(下)』ジョン・アップダイク 白水Uブックス P200)

この文章は自分自身にあてたメッセージだ。それはブーメランに似ている。それは投じられ、遠くの闇を切り裂き、気の毒なカンガルーの小さな魂を冷やし、やがてわたしの手の中に戻ってくる。帰ってきたブーメランは、投げられたブーメランと同じものではない。わたしにはそれがわかる。ブーメラン、ブーメラン。
(『スプートニクの恋人村上春樹 講談社文庫 P214)

 なめくじはあんまりくやしくて、しばらく熱病になって、
「うう、くもめ、よくもぶじょくしたな。うう。くもめ。」といっていました。

――(「蜘蛛となめくじと狸」宮沢賢治 『銀河鉄道の夜岩波文庫 P55)

(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、たいへん気の毒だ)
――(「銀河鉄道の夜宮沢賢治 『銀河鉄道の夜岩波文庫 P215)

こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。ぼくはほんとうにつらい。
(「銀河鉄道の夜宮沢賢治 『銀河鉄道の夜岩波文庫 P287)