カエル師匠2

「ぼっちゃん、お肌はしっとり、それが何よりだっせ」
 そんな優しいじいやの声が聞こえたのは、乾燥注意予報が天気予報とセットでお送りされる冬のある日だった。
 それから僕の人生は、まさに、お肌をしっとりさせるためだけの全国ツアーとなったのです。
 どうすればいいんだろう。どうすればお肌をしっとりさせることが出来るのだろう。化粧水か、乳液か、きゅうりパックか。どれも、中途半端なような気がしました。苦難の末、僕はついに、ちょうど一年後、一つの答えを導き出したのです。
 皮膚から粘液を出してヌルヌルにしておく。これです。
 粘液作戦は、本質的なところを間違うともう目も当てられないことになるのは明らかでした。だから僕は、偉大な師匠に粘液作戦の心構えを拝聴しに行ったのでした。
「止めとけよ。ニベアの売ってるやつ塗っとけばいいだろ」
 カエル師匠は、土の中からねむたそうに言いました。
「でも、しっとりを突き詰めたらもう粘液を分泌するしかないんですよ。どんな感じなんですか? 粘液でいつも肌がヌルヌルなのは、どんな感じなんですか? フィーリングはいかがですか」
「フィーリングは別にわかんねえよ。普通にヌルヌルだよ」
「ヌルヌルしてる感じはご自分であるんですか」
「ねえよ。ヌルヌル感じてたらこえーよ。ヌルヌルしてるのは別にいいけど、ヌルヌル感じたらやだろ。落ち込むだろ」
「落ち込むんですか」
「落ち込むよ。想像しろよ。なんもしてないのに俺ヌルヌルしてるなってわかったら落ち込むだろ。外歩けねぇよ」
「ヌルヌルじゃない時はないんですか」
「だからヌルヌルじゃない時とかそうじゃなくて、そもそもヌルヌルな時を自分で把握してないって言ってんだろ」
「今はどうですか?」
「だからわかんねえんだって。お前、手で触っても手もヌルヌルしてたら元も子もねえだろうが。もし背中がヌルヌルしてなくても手がヌルヌルしてたら、背中ヌルヌルしてるなって思っちゃうだろうが。そしたら落ち込むだろうが」
「手はヌルヌルしてるのがわかるんですか?」
「わかんねえよ。お前の常識で言ったんだよ。わかれよそこは。お前の言うヌルヌルが俺の普通だから、俺はノーマルがヌルヌルだから、そもそもヌルヌルがよくわかんねえっつってんだよ。大体ヌルヌルってなんだよ。それは別として、お前が言うように俺の手がヌルヌルなら背中もヌルヌルか確かめられねえって言ってんだよ。分けて考えろ、分けて」
「じゃあ、ヌルヌルになるにはどうすればいいんですか」
「だから止めとけって。全然ヌルヌルよくねえよ。そういう、特別な時以外はヌルヌルしてるのはやだよ」
「特別な時?」
「大人になればわかるよ。でも、そういう時以外は、日常は、ヌルヌルならやだよ、って俺は言ってんだよ。俺はやだよ、って言ってんだよ。でもヌルヌルなんだろ? だから今俺は落ち込んでるよ。お前、冬眠前に落ち込んだらシャレになんねえぞ」
「そうなんですか」
「そりゃそうだろ。お前、寝る前に落ち込んでたらやだろ。寝られないし、寝ても、起きた時にまたヌルヌルのこと思い出すだろ。つうかそれ考えたらまた落ち込む要素増えたじゃねえかよ。ふざけんなよ」
「じゃあヌルヌルは」
「だからヌルヌルってなんなんだよ。ヌルヌルじゃねえ方がいいって言ってんだろ。つうかそういうのも察してそっとしとけよ。わかってるよ俺だって。俺はヌルヌルなんだって、なんとなく、お前、知識として知ってるよ。俺は悔しいよ」
 そうなのか。帰り道、僕は手に持っていたローションのボトルを自販機の取り出し口に放り込んで泣きました。ヌルヌルしていると悔しいのか、と泣きました。