泥つき

 萩村ハヤトはその瞬間、確かにたじろいだ。こんな泥つきっていうか土のついた大根をそのまま食えるはずがないと思ったからだ。
 そっと周囲を見回すと、お父さんもお母さんと、それにおじいちゃんもこっちを見ている。微笑んでいる。
「新鮮だからおいしいよ」
 おばあちゃんは言った。土を手で二回パッパッと払っただけの大根を差し出したまま言った。
 ハヤトの頭の中は、新鮮なのはわかるけど泥とかはダメだろ感でいっぱいだった。確かにそこには、田舎の人が過剰に地元の良さをアッピールするような、あの盲目的な、テレビのチャンネルは4つしかないけどこっちには野菜とおいしい空気がある、というあの感情が浮き彫りになっていた。泥つきをむしろ良しとする都会人のお墨付きを得ながらにして都会人よりも優位に立とうとするようなあのいやらしさがあった。おばあちゃん自身も気付いていなかったが、ハヤトの小学生なら大体持っているとされるピュアな心がそれを感じ取った。
 とりあえず水洗いしてくれ、という思いを、ハヤトは目で伝えようとした。
「苦くないよ。甘いんだよ」
 おばあちゃんは何かを勘違いしていた。夏休みと冬休みの年二回、それにこうして運動会が終わった後の秋の休みに会うぐらいの関係でアイコンタクトを通そうとしたハヤトの作戦は失敗に終わった。明らかな連携不足だ。
「そうよ」「食べたら驚くぞ」「ハヤトは大根が嫌いか」
 お母さんとお父さんと、それにおじいちゃんも、おばあちゃんと同じように完全にハヤトの心は読み切っているという体で喋っている。ハヤトはこんな時の親族が嫌いだった。おじいちゃんに至っては、なんかむかついた。
「さあハヤト、食べなさい」
「ハヤト食べろ、好き嫌いは良くないぞ」
「ハヤト、畑でもぎたての野菜を食う、これ以上の幸せは無いぞ」
 あるだろ、ハワイとか。大根を差し出し続けるおばあちゃんを援護射撃するように、みんなが口々に食べなさい食べろ食えと言った。顔は笑っていた。これが親族による親族の圧力だ。それは一つのコールとなってハヤトの耳にリフレインした。食・べ・ろ、食・べ・ろ。
「いや、食べない」
 ハヤトは頭に響いた食べろコールを振り払うようにきっぱりと言った。
「だって、虫とかついてるもの。そりゃ中は新鮮だよ。そのぐらいわかるよ。おいしいと思うよ。幸せな人には幸せかも知れない。でも、外側には変な小さい虫とか細菌とかビッシリついてるもの。一握りの土に何億といるんだから。薄い筋に土とか詰まってるから絶対いるよ。無農薬だから安心なんじゃない、無農薬だからこその不安というものもあるんだ。普段から土を入れてるならいざ知らず、都会っ子の胃腸には酷ってもんだよ。とりあえず洗おうよ。それだけで、気分的に全然違うから」
 ハヤトは初めておばあちゃんに歯向かった。歯向かったら帰りに貰えるお小遣いが減らされたり最悪なくなったりするかも知れないという不安に打ち勝ち、見事歯向かった。
 畑に涼しい風が吹いた。
「ハヤトの言う通りだよ」
 おばあちゃんは言った。
 それから、ポンプ式の井戸まで移動して大根を洗った。
「ほら、ハヤト、これでいいんだろう」
 おばあちゃんは大根をこすりながら言った。
「うん、僕はとにかく洗ってくれさえすればいいんだ。盲目な善意で泥を食わされるのだけはごめんなんだ」
 ハヤトは中腰でみるみる白くなる大根を見ていた。その後ろでは、お母さんの実家で調子に乗って泥つきを丸かじりしたお父さんが、息子の言うこととはいえどんどん不安になってきていた。おじいちゃんは、ハヤトの言った「幸せな人には幸せかも知れない」が引っかかっていた。
「ま、本当はそれも自分で洗いたいんだけど」
 これでおばあちゃんも心に傷を負い、結局、健康な心で畑を後に出来たのはお母さんとハヤトだけだった。それでもハヤトは傷ついたのは自分だと思っていた。軽トラックの荷台の上で被害者面していた。