韓流スター

 胸毛から臍毛にかけての貴公子の異名をとる韓流スター、モ・ジャンジャンが飛行機のタラップを十代にありがちなうざい元気を利用して駆け下りてきた。
「キャ―――!」
「モー様―――!」
 その下で待ち受ける五百人のファンは一斉に叫び、モ・ジャンジャンの毛を早く見たいわ、そしてなびかせたいわ、という思いを込めた公式団扇で、酢飯を混ぜる職人も「それだ」と笑顔で親指を立てるだろうというぐらい良い音と風を起こした。ファンはどうすればモ・ジャンジャンの胸毛から臍毛にかけてが美しく大胆になびくのか知っていたし、寿司職人も知っていたのである。
 しかしファン達はモ・ジャンジャンを見上げると手を止め、今度は悲鳴を上げた。なんと、モ・ジャンジャンが下りてくるタラップの中段あたりに、貝印的なT字カミソリが、さかさまに置いてあるのを見たのだ。
「カミソリよ! カミソリだわー!」
「モ・ジャンジャン剃られないでー!」
「胸毛ー!」
 しかし、余りにもファンが一斉に叫ぶので、モ・ジャンジャンには「好きー!」としか聞えなかった。だからモ・ジャンジャンは、いやみなくあしらうつもりで満面の笑みを浮かべ、「日本の皆さんこんにちわー!」とありきたりな台詞を言いながらタラップを駆け下り続けるのだ。
「あ!」
 刻一刻とモ・ジャンジャンがカミソリに近づく中、一人のファンがあるものに気づいた。カミソリのある三段上にあるあれは、あれはシェーヴィングフォームだわ!
「シェービングフォームよ! それも泡が出るタイプのシェービングフォームだわー!」
「モ・ジャンジャン塗らないでー!」
「臍毛ー!」
 しかし、またもファンが叫び過ぎるので、モ・ジャンジャンには「キムチはやっぱり好きなのー?」としか聞えなかった。だからモ・ジャンジャンは、一旦、何か考えている時にいつも見せるかなりアホな顔をしてからクールな顔になって「じゃあ君達は皆、納豆が好きだっていうのかーい!」と言いながら、アホな顔をしている時の油断が災いして、タラップを踏み外してしまったのだ。
 ファンの叫び声がこだましてそれからは、モ・ジャンジャンにも、ファンにも、全てがスローモーションに見えた。
 モ・ジャンジャンが転がり落ちる。転がり落ちる拍子に、純白のワイシャツのボタンが外れていく。落ち始めて四段目で完全にはだける。五段目で、ああ、脱げた。やばい。悪い方悪い方にいってる。バランスをとるために伸ばした右手に、シェービングフォームが当たる。拍子に、蓋が外れる。その上へ覆いかぶさるように落ちていくモ・ジャンジャン。くるっと回って再びモ・ジャンジャンの胸が空中でファンの目にさらされた時、もうそこは泡塗れだった。「キャ―――!」いよいよモ・ジャンジャンは、胸毛から臍毛にかけての貴公子は、その終焉となるカミソリの段へと斜めに落ちていく。この入射角だと、一気にゾリッといくわ―――! 誰もが、そんなことを思った。そして、モ・ジャンジャンは胸から滑り落ちるように、カミソリの上を通り過ぎたのだ。
「いや―――!」
 ファンは、目の前で起こった悪夢に目を覆った。そしてしばらく、その手をどけられなかった。地面に落ちたモ・ジャンジャンが全身軽い打撲やうちみでようやく立ち上がって「アニョハセヨ」と声をかけた時、ファンはおそるおそる手をどけた。
 しかし、ファンの予想とは全く違って、そこには、胸毛から臍毛にかけての貴公子が立っていた。モ・ジャンジャンの胸毛から臍毛にかけては、泡を絡ませながら、確かにもじゃもじゃっと、そこにもじゃっていたのだ!
「無事よ! 胸毛は無事よ!」
「臍毛もよ!」
「でもなんで!」
 その時、タラップの一番上に颯爽と姿をあらわした人影があった。
「あ、あれは!」
 気づいた一人が指差し叫ぶと、モ・ジャンジャンも、五百人のファンも、一斉にそちらを見上げた。
「皆さん。当機では、お客様の安全を期して、カミソリの全てにプラスティックカバーをつけているのです。快適な空の旅をする権利はお客様の体毛にも認められる。我々はそう思っているのです」
 愛に満ちた航空会社のほとばしる思いを代弁する台詞を受けて、今日一番の歓声が飛行場を支配した。余りに大きなその歓声はモ・ジャンジャンにとって「上は洪水、下は大火事、なーんだ」としか聞えなかったので、モ・ジャンジャンは今までで一番アホな顔をした。 プラスティックカバーをつけたのはカミソリの会社だった。