歯ぁ磨けよ!

「…………………c………」
 保健室の歯科検診特設会場(二列)で、金属と歯がカチカチあたる音の最中に発せられた歯医者さんの言葉をみんな聞き逃しはしなかった。とうとうつかまった。羽賀がとうとうつかまったんだ。
 小学四年生の春にして「裏表開く重装備F1カー筆箱」から脱却した羽賀の布製筆箱には、3つのバッジがきらめいている。「よい歯バッジ」と言われるそれは、虫歯の無い児童に贈られる勲章なのだ。
「虫歯出来るやつって不潔なんだよ」
 椅子の後ろ足だけでバランスを取る古今東西の小学生に大人気の体勢で、羽賀は虫歯に対しての持論を展開した。
「なっちゃう、磨いてもなっちゃうんだよ!」「で、磨かなくてもやっぱりなるんだよ!」「つうか歯磨きめんどくせーじゃん!」「体洗うのとめんどくささでは張るぜ!」
「小四で金歯とか終わってるよ」
 羽賀は毎年色が違う「よい歯バッジ」の位置を替えながら冷たく言った。
「なんか、水でグチュグチュペできれいになったって決め付けちゃうんだよ、オッケーサインが脳から出ちゃうんだよ」「俺なんか、アクアフレッシュ食べて歯磨きした気になって寝ちまうんだぜ!」「俺は、朝二倍やるから今夜はいいやって思っちゃうんだよ羽賀!」「羽賀は思わないのかよ、どうして思わないんだよ」
「俺だって、歯磨きなんてちょっとしかしねえよ。夜、寝る前ちょろっとやるだけ」
「朝は、朝はどうなんだよ」
「しない」
「ホントかよ羽賀」「じゃあなんで虫歯一つ無いんだよ。なんでCって歯医者から言われないんだよ」「COすらもないじゃんかよ羽賀は」
「絶対、先生には内緒だぜ」
 羽賀は席を立ち、興奮してついていこうとする皆を制してから教室の後ろにあるロッカーに行き、自分のランドセルを持って帰ってきた。立ったままランドセルを机の上に置いた。みんながその周りを囲んだ。
「これが俺の歯を守ってくれる」
 ランドセルの時間割表を入れておくと便利な窓のところの下のポケットから、それは出現した。その瞬間、みんなの興奮は頂点に達した。
「一個くれよ」「くれよ」「ちょうだいよ羽賀」「ゲーム貸すから」「うちのハムスター子供生まれたから、それ一匹やるからくれよ」「ちょうだい」
 羽賀は首を振った。
「俺は自分の歯に投資してるんだ。あげるわけにはいかねえ」
 羽賀は元通りにそれをしまうと、ランドセルを片付けるため歩き出した。しかし、途中まで行くと振り返り、岡本を指差した。
「ハムスターはどっちにしろいらねえ」
 保健室に、検診前の強気な羽賀はもういなかった。そこにいるのは、今年は「よい歯バッジ」を貰えない羽賀だった。特に勉強が出来るわけでもない、足が速いわけでもない、図工が凄いわけじゃない、視力もどんどん下がってる、そんな羽賀から「虫歯が無い」という褒め言葉が剥奪されたのだ。どうすんだよ羽賀。
 みんなは保健室から黙って出て行く羽賀を見ていた。歯みがきガム(NOTIME)という神話に頼りすぎた男の背中を。