リクライニング青山の敗北

「お客さん、どちらまで」
「新宿まで」
「はい」
「それはいいけどね……運転手さん。17度足りないね」
「え?」
「ひどいもんだ……いやひどいひどすぎる。そんなひどいリクライニングはついぞ見たことが無い。新幹線で後ろの人に凄い遠慮してる人の如し、だ。見てるこっちが気の毒だ」
「リクライニング?」
「ああ、小学生でもそんなヘマはやらないね」
「……」
「俺の師匠ならもう殴ってるよ。さあ、早くあと17度その座席を後ろに倒すんだ。それだけで、あんたはまるでS級ライセンスさ」
「……」
「さあ、早くやりな」
「……」
 運転手は頑なに口を開こうとしない。
 リクライニング青山は「狂ってる。あんたは狂ってるよ」と言って、あきらめたように流れる景色を眺めるのだった。
 三十分後、タクシーは新宿に近づいていた。運転手は赤信号でタクシーを止めると、おもむろに口を開いた。
「お客さん、何か勘違いしていらっしゃる」
「なんだって?」
「お客さん、私はね。わざとこんなリクライニングに甘んじているんですよ。私だって窮屈だ。最高のリクライニング角度で運転したい。右折も左折もしにくくてしょうがない。しかしね、私が伸び伸びリクライニングしたら、お客さんはどうなりますか。迫り来るリクライニングに、おちおちカバンもまさぐれませんよ」
 まさにその時カバンをまさぐっていたリクライニング青山は、目を見開いた。
「な……」
「それが、タクシードライバーの宿命なんです。デ・ニーロもそうしていました」
 リクライニング青山の顔は蒼ざめ、手は震え、声を出すことも出来ない。かと思えば、みるみるうちに赤面していく。その時、車が止まった。
「さ、お客さん。着きましたよ」
 リクライニング青山は俯いたまま力無く財布から一万円札を抜き取ると「釣りはいらない」と呟いた。
「お客さん、そういう訳にはいきませんよ」
「いや、いいんだ。いいんだよ。受け取ってくれ。勉強料だ」
 リクライニング青山は、そう言ってタクシーを降りかけた。その時、背後から声がした。
「お客さん。お客さんは17度と言いましたが、最高の角度は16度です。またどうぞ」
 タクシーのドアがゆっくりと閉じられ、程なくして発車した。
 それが摩天楼の隙間に消えて行くまで立ち尽くしていたリクライニング青山は、茫然自失のまま歩き出すと、ようやく右ポケットの釣銭の重さに気づくのだった。