いいかい、これは単なる文字なんだ! それだけのことだよ!
――(フィリップ・ロス『いつわり』)

竹内さんの味付けは上手。いつもするすきやきよりおいしい。うちのやり方は、ずーっと間違っていたのかな。
――(武田百合子富士日記(上)』)

「たとえ、どんな目に遭おうと、嘘を吐くのはよくない」と懇ろに、名づけ親のピエエル爺さんはいう――「こいつは卑しい欠点だ。それに、なんの役にも立たんだろう。だって、どんなこっても、ひとりでに知れるもんだ」
「そうさ」とにんじんは答える。――「ただ、時間がもうからあ」

――(ルナール『にんじん』岸田國士訳)

わななく手で、はじめて女のストッキングのなめらかな感触にふれたときにも衝撃を受けた。というのは、いくら本は読んでも、覚えているのは、自分という存在についてのこだまのようなもの、ないしは予言のようなものだけで、やさしい命で生きる女の魂や体について彼が考えることができるのは、なよやかな言葉づかい、薔薇のようにやわらかい辞句のなかだけであったから。
ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』丸谷才一訳)

「なにごとも慣れだよ」ジョーニーは言いました。「人間だれだって、自分の両親をえらぶわけにはいかないしね。ぼくはときどき、両親がぼくをむかえに、ある日ひょっこりここにあらわれることを考えるけど、そんなときぼくは、自分が一人でいられるのがどんなにたのしいことかって、はじめて気がつくんだ。〜」
――(ケストナー『飛ぶ教室』)

ピーター、あなたはわたしを感傷的と考えるでしょう。まったくそのとおりよ。だってわたしは、自分の感ずることだけが言う価値のあることだと感ずるようになったんですもの。利口さは馬鹿げてるわ。ひとはただ感ずることだけを言わなければならないのよ。
――(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』)

ぼくが嫌なのは馬に乗ることじゃない、新しいことを習う際の当惑、初心者につきまとうばからしさというものだ。
――(ジョン・バース/志村正雄訳『旅路の果て』)

「きみ、わからないのかなあ、くだらない愛想や礼儀やら――男が女に対して演じてみせる芝居なんてものは――みんな思いやらないせいだってことが。嘘をつくのは思いやらないからだ。そして、ナンセンスにもとづいた関係は嘘にほかならない。女性に対する礼儀なんてものは女を真剣に考える気のない男が考えたフィクションだ。男と女がそれを、このフィクションを許したとたん、お互いを個人として考えなくなってしまうんだ。お互いに相手のことを考えなくてすむようにという目的でフィクションを認めるんだ。これはもちろん役に立つことさ、セックスのことしか考えてないんならね」
――(ジョン・バース/志村正雄訳『旅路の果て』)

つまり考えてみると、なにかに感動するということが一般にすごく嬉しいのは、その感動的な出来事(本でも音楽でもテレビドラマでもちょっとした事件でもなんでもいいわけだが)にめぐりあえたということ自体の喜びのほかに、このぼくはこんなに感動できる男だ、こんなに感じやすい心を持ったいいやつなんだといったことを確認できるせいにちがいない、とぼくは思うのだ。
――(庄司薫白鳥の歌なんか聞えない』)

ぼくはこれまで、ぼくなりに努力して他人に迷惑がかからないようにと一生懸命にやってきて、そして実は(おそらくみんな笑うかもしれないが)、できれば「世のため人のため」に頑張ってやれなんていい調子に考えていた。でも、むしろそんなこと以前に、ぼくが生きていていろんなことをやり感じるということだけで、実は必ず誰かを傷つけたり軽蔑したりすることになっていたかもしれないではないか。
――(庄司薫『さよなら怪傑黒頭巾』)

「あの光の下に、数えきれないほどの人々が集って、みんな生きていて、うまくやったり、ひどい目にあったり、泣いたり怒ったり喜んだりしてるなんて不思議でしょう?」
――(庄司薫『ぼくの大好きな青髭』)

ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね
――(トルーマン・カポーティティファニーで朝食を』)

あなたって、自分の持ってるユーモアのセンスでもって自分自身を嘲笑の的にするのに、何か特別な楽しみとかプライドとかを感じているみたい。
――(フィリップ・ロス『ポートノイの不満』)

ロビンソン・クルーソーが島の中のもっとも高い一点、より正確には、もっと見晴らしのきく一点にとどまりつづけたとしたら――慰めから、恐怖から、無知から、憧れから、その理由はともかくも――そのとき彼はいち早く、くたばっていただろう。ロビンソン・クルーソーは沖合いを通りかかるかもしれない船や、性能の悪い望遠鏡のことは考えず、島の調査にとりかかり、またそれをたのしんだ。そのため、いのちを永らえたし、理性的に当然の結果として、その身を発見されたのである。
――(カフカカフカ寓話集』)

あるとき、猿まわしの背なかにおわれている猿に、かきの実をくれてやったら、ひと口も食べずに地べたにすててしまいました。みんながじぶんをきらっていたのです。みんながじぶんを信用してくれなかったのです。
――(新美南吉「花のき村の盗人たち」『ごんぎつね』)

ガリーはこの試合の二、三週間後、かみさんの出産に立ち合うため、三日間の産休を申し出て物議をかもすことになる。球団側はかなりしぶった末に許可した。日本野球史上、前例のない休暇だ。当然のことながら、マスコミはギャーギャー騒いだが、ガリーが新生児のミドルネームを発表したら、たちまちおとなしくなった。
――(W・クロマティ/R・ホワイティング『さらばサムライ野球』)

彼女は本を読みすぎるとか、読書の楽しみのために多くの独創的な力が浪費されているとか言う人がいる。また、もし彼女が自分で見たり話したりできることになったとしても、それは他人の目で物を見、他人のことばで言うことになると言う人もいる。しかし私は、多くの読書をして準備されなければ、独創的な作文も不可能だと確信している。
――(アン・サリバン『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』)

旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます。
――(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』)

盲人は言った。「テレビは二台持ってますよ。カラーテレビと、昔ながらの白黒を一台ずつね。おかしいことに僕はテレビをつけるとなると、まあ、しょっちゅうつけてるわけだけど、きまってカラーの方をつけちゃうんだな。いつもそうなんだ。おかしいね」
――(レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳「大聖堂」『ぼくが電話をかけている場所』)

腹立ちまぎれに妹のコメカミに拳骨をくらわせ、それが原因で妹は長い夏休み中、ずっと痛みがとれず、ついに、兄の苦悶を痛ましくも倍にもつのらせたことを悔やみ、「許してあげる」とやさしく言いながら死んで行ったなどということもなかった。
――(マーク・トウェイン「悪たれ小僧の話」『マーク・トウェイン短編全集(上)』)

「ルーク――教えて。あなたがこの世でいちばん愛しているのは何なの? だって、わたしと同じだけ、あなたに愛してもらいたいからなのよ。もっと愛してもらいたいの! 全世界でいちばん愛しているものは何なの?」
「全世界でかい?」
「そうよ」
 ルークがその返事をしたときは、夜が明けていた。
「三塁打だよ」

――(フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』)

最終回に五点もリードされながら、まだ勝つ野球をしようとすれば、盗塁をはじめたりしない――しかし、このピンチランナーはまさに盗塁してやろうと思っていたのである。しかも、なんと大胆な! まず、猛烈なスピードで二塁にむかって十五フィート走った――ところが、つぎに四つん這いになって逆もどりはじめたのだ。「だめだ! だめだ!」と叫びながら、手を伸ばしてベースをつかんだ。「おれはだめだ! いいんだ! どうでもいいや!」しかし、一塁ベースにふたたび立って、ほこりを払ったとたん、また走り出した。「だめってことはない!」と叫んだ。「畜生!」しかし、二塁まで十五フィート、いや二十フィートすすむと、急に停止して、自分の額をたたき、また一塁に夢中でもどりながら叫ぶのだった。「おれは狂っているのかな? 気がふれたのか?」
――(フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』)

「うちでめったにお金の話をしなかったら、お金がたくさんあるんだと思うな」
――(ケストナー『エミールと探偵たち』)

「父さんは言ってるよ、おれたちが大人になるころには、何もかも機械になってるって。仕事があるのは、こわれた機械の廃棄場だけになるだろうって。機械にできないことと言ったら、ふざけることだけだ。人間の使い道は、冗談を生かすことだけさ。」
――(トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』)

彼は奥のほうから外をのぞいて、ロンの仕事ぶりを見た。「大学に四年いて、トラックの荷おろし一つろくにやれん」
 なんと答えたものか判らなかったが、結局ほんとうのことを言うことにした。
「ぼくだって、できそうにありませんね」
「覚えるのさ。このわしはなんだ、天才かね? 覚えたんだよ。懸命に働いたって死にはせんさ」
 そのとおりですと、ぼくも認めた。

――(フィリップ・ロス『さようならコロンバス』佐伯彰一訳)

おれは孤独だ。おれは善人だ。眼鼻立ちは悪くないと思うんだ。
――(太宰治「カチカチ山」『お伽草紙』) 

瘤は孤独なお爺さんにとって、唯一の話相手だったから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなった頬が朝風に撫でられるのも悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短というようなところか、久しぶりで思うぞんぶん歌ったり踊ったりしただけが得、という事になるのかな? など、のんきな事を考えながら〜
――(太宰治お伽草紙』)

君たち人間ってのは、どうせ憐れなものじゃあるが、ただ一つだけ、こいつは実に強力な武器を持ってるわけだよね。つまり、笑いなんだ。
――(マーク・トウェイン『不思議な少年』)

宇宙の不思議を知りたいという願いではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願いです!
――(「牛肉と馬鈴薯国木田独歩

それからの数日間に、ブレンキンスロプは、世間の尊敬をかち得た場合、自己に対する尊敬を失うことが、いかに屁でもないかということを発見した。
――(サキ「七番目の若鶏」『サキ短編集』)

チェッ、ハック・フィン、君ぐらい無知だったら、僕なら黙ってるな――きっと黙ってるよ。
――(マーク・トウェイン『ハックルベリイ・フィンの冒険』)

紅白に分かれて練習試合。
紅白戦でマットのカーブをヒットした。まだ、キャンプが始まったばかりで、オレは全然調整ができていない。一方マットは1カ月も前からトレーニングを積んでいたので、すでに速いタマを投げられる段階だった。それでマットに、おまえの速球はいまのオレにはとても打てそうもないからカーブを投げてくれ、と頼んだ。それを打っただけの話だ。

――(ランディ・バース『バースの日記。』)

要するにハンス・ハンゼンは、二人きりでいる時なら、すこしはトニオが好きになる――それはトニオにわかっていた。しかし第三者が来ると、ハンスはそれを恥じて、トニオを犠牲に供してしまう。だから今トニオは、またひとりぼっちなのである。
――(トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』)

だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、一つの洞察も、他人の著した本をのぞきさえすれば、みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。
――(ショウペンハウエル『読書について』)

ハックは、しばらく黙っていて、そのあいだに適当な返事を考えた。
「それはね、おれは、どっちかというと不幸な身の上なんだ――みんながそう言うし、自分でもそう思ってる――そのことを考えて、なんとか新しい道を開こうと思って、眠れないことがよくあるんだ。」

――(マーク・トウェイントム・ソーヤーの冒険』)