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ワインディング・ノート29(世阿弥/サザンオールスターズ/cero)

ワインディング・ノート

 で、実にそんな感じで作品に自己を投影しないようにやってきたのですが、この一年間に、自分をバリバリに投影して読んでしまい、この通りに生きようと思ってしまった本が二冊だけあります。
 それが、世阿弥の『風姿花伝』と、村上春樹の『職業としての小説家』です。
 前者は『十七八より』という小説家になる前に、後者は小説家になった後に読みました。

このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、 かかり失せて、過ぎしころの、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りにて、てだてはたと変わりぬれば、 気を失ふ。結句、見物衆もをかしげなる気色みえぬれば、はづかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。 このころの稽古には、指をさして人に笑わるるとも、それをばかへりみず、内にて、声の届かんずる調子にて、宵 暁の声を使ひ、心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。総じて、調子は声よりといへども、黄鐘・盤渉をもて用ふべし。調子にさのみにかかれば、身形にくせ出くるものなり。また、声も年よりて損ずる相なり。

 
 世阿弥は、「年来稽古」と題した各年齢で行うべき修行と心構えの記述から、秘伝書『風姿花伝』を始めます。
 その中で、「十七八より」(次の項が「二十四五より」なので、その間)の時期は「一期の境」と書かれている。それは、それまでの子供らしさで見栄えよくやれてきたことが、声変わりが始まり、背がひょろひょろ伸びることで、色を失うからだと世阿弥は言います。これまで無邪気にやっていたやり方が、通用しなくなるのです。そして、見る方がその散漫な様子に気づけば、やる方もその反応を察し、ますます恥ずかしくなり、たいていはみじめな気持ちで退屈していく。「子役は大成しない」とは、芸能界の最初期からある問題なのでしょう。
 でも、だから、子供から大人に移り変わるこの時期に笑われるのは当然だけれども、それを受け入れて「生涯にかけて、能を捨てぬ」所存でやるほかない。世阿弥が言うのは、そういうとてもシンプルなことです。
 けど、それだってなかなか難しい。

せつない胸に風が吹いてた
帰らぬ My Old Days
    
大人になるための裁きを受けて
羽ばたく友達が落とした夢の数を
独りきりで 数えた夜
名も無い歌にやわな生命を
奉げた Long Long Time
    
あこがれは無情な影だと言われ
去りゆく友達(とも)が残した旅の地図は
夏の空に 溶けていった
    
虹のように消えたストーリー
もう二度と戻れない時代を越えて
この胸に 浮かぶストーリー
幻と知りながら 熱い涙

 
 サザンオールスターズ『せつない胸に風が吹いてた』の歌詞は、桑田佳祐が大学時代に音楽の道をあきらめた友人たちを回想して書かれたものらしいのですが、この世の中で、抱いていた夢を叶えられない者が大勢を占めるのは、ご存知の通りです。
 死ぬまでやるという、かなりシンプルな方法があるとはいえ、世阿弥が言うような時期に現実を知り、あこがれは無情な影だという言葉を受け入れて、一人、また一人と夢から去っていく。結果、生涯にかけてそれを捨てぬ者だけが残される。
 このフォーク・ロックに分類されるような歌の心情は、死ぬまでやる者の「孤高」というよりは、太宰の言った「孤低」を想起させます。「大人になるための裁きを受けて」友が夢と引き替えに「羽ばたく」時、彼は地に残され、友を見上げているのですから。

 それでも「やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!」といがらしみきおの薫陶を受けていた僕は、世阿弥からそれよりは幾分か具体的な指示を受け、『十七八より』を書き始めました。ブログで文章を書き始めた頃からちょうど十七八年が経った頃であり、一期の境ここなり、とモチベーションを上げるには十分だったのです。
 その『十七八より』を書いている間は、ceroの「Yellow Megus」をよく聴いていました。聴いていたというよりか、ほとんど流しっぱなしにしていたといった方が正しいです。


cero / Yellow Magus【OFFICIAL MUSIC VIDEO】 - YouTube

サーファーたち見送る Ocean Liner to nowhere
打ち寄せる波は nova
波止場の女たちのカフスが風に揺れる
    
船出に沸き立つ群衆の声を掻き消し
祝砲をあげろ Harbor
その時人知れずに水夫が囁いた
    
「港を出たら針路を変え この船は砂漠の方角へ向かい
 期待と船体 打ち捨て 風が凪いだら海底に沈めろ」
    
Last Cruise, that day and that night...
    
誰もが忘れた船の名は Yellow Magus
東方で行方知れず
彼らに祈りの十字も切られないまま
覚えているのはデッキに鳥が降り立ち
行先を告げるように
五色の嘴 もたげてた あの姿
    
「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じに
 気付けよ 星が動けば これから起こることが分かるだろう」
    
Desert Song, Desert Song フィナーレを迎え入れてくれ
今夜中に砂漠へと渡り
See the Light, See the Light 砂の上を走る鬼火たち
光 宿し うごめいている
    
帆を下げ 陸に上がれ 帆を下げ 朝まで
帆を下げ 砂漠へ行け 帆を下げ 朝まで
    
…砂巻き上げて何かがやってくる
    
Desert Song, Desert Song フィナーレを迎え入れてくれ
今夜中に砂漠へと渡り
See the Light, See the Light 砂の上を走る鬼火たち
光 宿し うごめいている
    
帆を下げ 陸に上がれ 帆を下げ 海を捨てて
帆を下げ 砂漠へ行け 帆を下げ 朝まで
    
Last Cruise,that day and that night...

 
 書いている時はなぜそれを聴いているのか考えもしなかったのですが、こうして歌詞を写してみたら、結局自分も、無私などとは程遠い励ましをかぎつけ、因果の中で生きているのだと思わされることになりました。
 生涯をかけて捨てぬという覚悟、孤低の雰囲気、全世界を異郷と見なし続ける嗜み。それらを、都合のいい僕がこの歌詞と音楽に感じ取っていたことが手に取るようにわかる気がするのです。
 ちょっとこの歌について考えてみたいと思います。気になる歌詞があります。

「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じに
 気付けよ 星が動けば これから起こることが分かるだろう」


 「星が動けば これから起こることが分かるだろう」とは占星術ですし、「Yellow Megus」というタイトルからも「東方の三博士」が思い出されるところです。
 そういうことは別にしても、この歌詞をどう解釈するかは悩むところで、どう悩むかというのを、句読点でわかりやすくしてみます。


「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じに。
気付けよ、星が動けば これから起こることが分かるだろう。」


「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じ、に気付けよ。
星が動けば これから起こることが分かるだろう。」

 つまり、「気付けよ」という言葉が、前後のどちらにかかるかという問題です。
 また、その句読点の付け方とも関わりますが、もう一点、「終わりの来ない旅」が何であるかもちょっと気になるところです。
 「終わりの来ない旅」が船旅のことであるなら、彼らは異郷である砂漠へ旅立ち、まぼろしに留まらないことになる。「気付けよ」とはまぼろしに留まることに対する注意を喚起する言葉になります。そして、そうならないために星を見ておくがいいだろう、というニュアンスを引きずって言葉が続く。この場合、句読点は②の方がふさわしいように思えます。「まぼろしに留まる」ことは悪であるという判断を下す歌詞です。
 「終わりの来ない旅」がもっと広い意味での旅のことであるなら、船を捨ててフィナーレを迎え砂漠に向かおうとも、彼らはまだ旅の中におり、まぼろしに留まることになる。そして、そうだとすれば、注意を喚起する意味はないので、句読点は①の方がふさわしいように思えます。その時、「気付けよ」とは、星の動きを見逃すなという意味です。東方の三博士が占星術によってイエスの誕生に駆けつけたように、星を見ていればこれから起こることがわかるから見逃すな、と。この場合、「まぼろしに留まる」ことに対しては善悪の判断は下されません。
 善悪の判断をしないということは、すべてをよしとするということです。
 『Yellow Megus』=「黄色い三博士」にある黄色が黄色人種をさすのであれば、東方の三博士は、東洋人を含意することになります。東洋思想の、よく言われる一つの大きな特徴として、もちろん厳密に全てを括れるわけではありませんが、善悪二元の判断をしないことが挙げられます。それも、善悪を否定するのではなく、それを含みながら頓着しないというのがおもしろいところです。サリンジャーもそれに惹かれた。
 先ほど長々、あまり重要そうでない歌詞の分析を試みていて、自分でもどうしたものか、意味があるのか、と思っていましたが、この歌詞が、そういう風に書かれているのだとここに来て思えてきました。
 つまり、この歌詞は、①でありながら②であり、②でありながら①であり、という矛盾を孕んだまま、「終わりの来ない旅」や「まぼろし」が、その意味や価値を固定されずに浮遊しているように書かれているのです。
(つづく)

 

風姿花伝 (岩波文庫)

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職業としての小説家 (Switch library)

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十七八より

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Yellow Magus(DVD付)

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Obscure Ride 【通常盤】

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ワインディング・ノート28(村上春樹/『職業としての小説家』/フィリップ・ロス)

ワインディング・ノート

 僕は、村上春樹の熱心な読者ではありません、と書いたところで、そのくせほとんどの本を読んだことがあるし、たくさんの啓示を当たり前のように受けてきていることに気づきました。
 それでも、 熱心な読者ではないと何の逡巡もなく余計なことに口をすべらせてしまうのは、村上春樹を語るときに頭の片隅に現れる「熱心な読者」たちの存在のせいな のですが、その人たちは巷で「ハルキスト」と呼ばれたりして、ノーベル賞の時期になるとカフェに集まったりして、受賞せずの報を受けると「あーっ」とテー ブルに突っ伏してしまったりしているのですが、あれを見ると、僕も人間なので、これは何か良からぬことが起こっているんじゃないかと思ってしまい、自分はあんなスタンスで村上春樹を読んでいるんじゃないんだという宛先のない言い訳が胸の内にたまっていくよね、と大体そのようなことが『バーナード嬢曰く。』に書いてあり、その『バーナード嬢曰く。』まで含めて、これは何か良からぬことが起こっているんじゃないかと思ってしまうのですが、この思いこそが「良からぬこと」へ招待されるためのパーティー券みたいなもので、みんなこれを内ポケットにしまいこんで行くか行くまいかウロウロし、あやしい目つきになっている人も結構いるという状況みたいです。
 その「良からぬこと」が、作家をとりまく他愛と中身のない議論のことではなく、作家や小説のことに取って代わってしまっているような危うい言説を、僕は聞いたことがありますし、見たこともあります。
 そんなとんでもないバイアスをかけて読まれてしまう小説家になるまでの変遷と心意気と実践について、とても真摯に書かれているのが『職業としての小説家』という本です。
 個人的なことを言わせてもらえば――本はいつも個人的なもののはずですが――僕はこの本を、小説家になってから読みました。
  僕は今年、『十七八より』という小説で村上春樹と同じ群像新人賞をもらって、自分のことを小説家と呼んでもバチは当たらないぐらいな感じになったのですが、前回も書いたように、そうなったからといって特筆するような感慨もなく、なんなら受賞を知らせるお電話も、さんざんこの日のこの時間だぞと知らされて いるにもかかわらず、マジで失礼なことにその日は出ることなく、やや(と信じたい)顰蹙を買ったぐらいでした。
 何が言いたいかというと、我が身に起こる出来事というのは、我が身にとってはどこまでいっても出来事でしかないのであって、自分が揺るがされる度合いとなる「震度」というのを持たないような気がするという感じがどうもして、小説の新人賞もそうだったということです。
 こういう考えがどこで養われてしまったかというと、もちろん元々の性格ということもあるのかも知れませんが、多くは、読書の中で培われたものであろうと推察できます。
  少なくない本を読む中で、少なくない書き手が無私の心を語っていました。僕はそういう考えがけっこう性に合う気がしました。これまでワインディング・ノー トで書いた以外にわかりやすい例で言えば、老荘の「熱心な読者」だった時期がありますし、引き写しノートのかなり初期の方に、こんな文があるのを容易く見つけられます。

    ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう。

 フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』の一節です。確かこれは、もちろんそれだけではないという留保付きでいうなら、セックス・セックス・セックスの本でした。
 さて、これに類する数え切れない教訓によって僕は、読書が歓びをもたらした場合、それは自分が揺さぶられるのではなく、例えば「文学」が揺さぶられているのだと思うようになり、それを歓びとして読むようになりました。
  自分の感動なんかより、何千年の歴史を持ち、数え切れない先人達が積み上げてきた「文学」の変動を感じる方が、ずっと大事なことだと思うようになったのでした。(「文学」という言葉をそんなに無邪気に信頼しているわけではありませんが、そこにぴったり当てはまる適切な言葉が見つからないのです)
  こういうことばかり考えていると、そのうちそういう考えを全てに適用するようになり、せっかく知り合った人たちとの連絡は別に絶って大丈夫だし、群像新人文学賞受賞を知らせる電話は別にその日のうちに出なくても平気、と考えるようになります。
 そんなことをして友達がいなくなったり信頼を失ったりしても、さびしがったり困ったりするのは二の次である自分であって、いちばん大事な「文学」は困らないからです。
 こうなるとけっこう人としては最悪なのですが、この話はもういいでしょう。ともかく、自分が割にどうでもよくなるので、本にあんまり自分を投影しなくなるということです。正確に言うと、投影しかけても投影してないように考えを持っていってホッとする有様、という状態に近いのですが、あんまり上手く言えません。
 というわけで『職業としての小説家』の感想がつづきます。

 

職業としての小説家 (Switch library)

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バーナード嬢曰く。 (REXコミックス)

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ダイング・アニマル

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十七八より

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ワインディング・ノート27(こだまさん・吉田健一・坂口安吾)

ワインディング・ノート

 黙っている間に集団的自衛権に関する閣議決定がなされ、「カツマタくん」はクソをひり出すように続き、僕は群像新人文学賞をもらい、夏の甲子園が始まり、こだまさんの文章が活字になり、甲子園が終わり、堀北真希が結婚しました。
 それなりに忙しくなる、人に会う機会ができる、お金がもらえるなど、状況こそ多少変わりましたが、心持ちは何も変わらないようです。最終候補に残り、取れるか取れないかの電話待ちみたいな時期もあるにはあったし、そういう時期やその後のあれやこれやについて、だいぶ前にはちょくちょく考えていたような気もするのですが、ただ一切は淡々と過ぎゆくばかり、時々、誰にともなくうるせーバカと思うぐらいでした。
 そういう「世に出る」ような時が来たらどうなるかと、昔々に青臭く考えていたこと。それは例えば松任谷由実が、恋が成就してしまう直前の幸福な気分として「つぎの夜から欠ける満月より 十四番目の月がいちばん好き」と書いた歌詞に表れるような、大きな期待と不安の入り交じるときめきの予感でありました。
 ただ、実際はなんということもない。もちろん、嬉しくなかったわけはないけれど、そもそも群像新人文学賞が満月かというと、そんなことでもありません。「十四番目の月がいちばん好き」だという女の子だって、それが人生に一度の恋であるはずがなく、そもそも衛星としての月が何度も満ち欠けして見えるように「十四番目の月」にあたる気分はネクストの恋ごとに何度だって訪れるんだろうから、そのたびにときめいておればいいかとも思いますが、そんな気分でいられるような、ある種の「おめでたさ」みたいなものがあるなら、何かを仕遂げることは一挙に難しくなるだろうと感じています。
 なぜといって、およそ芸術という括りで呼ばれるような世界で何かを仕遂げるとは、これまでだらだら書いてきたように、この世に実現するはずのないものの姿を、追い求め続けてのたれ死ぬようなことだからです。別に他のことでも長いことやっていればそういうことになるでしょうが、ぜんぜん仕遂げることなんかにはならない。どうせのたれ死ぬのだから。
 そう考えると、目の届く範囲で今一番わかりやすくのたれ死にそうなこだまさんが注目されているのはある意味当然の結果であるのかもしれません。

    いかなる問題が起ころうとも、"しない"ことによって解決しようとしてはいけない。常に"する"ことで解決するしかないのだ。やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!

  こう書いたのは1990年のいがらしみきおですが、こだまさんの生き方に憧れという名の共感を持ったりする人が多いのは、この文が伝えるところと僕は考えております。
 "する"というのは、その時々で(なんでそんなことになるのかは置いておいて)出会い系で男とヤることであったりするわけです。
 同じくいがらしみきおは『Sink』の中で、「バランスは必ず崩れる、でも崩れてしまった時が一番安定している」とも書いているのですが、こだまさんもまた"する"ことで、現在の歪なバランスを崩し、崩しきったところでの安定に解決を見ようとしたのかもしれませんし、助かったということもあるかもしれないでしょう。
 ただ、そんなことをしていたらやっぱり辛い。なぜといって、最高にバランスが崩れて完全に安定した状態が「死」というものであるのは明白で、安定を目指す衝動が向かう墓場は決まっているからです。
 生きるためには"する"しかないのですけれど、バランスを崩して新たな安定を得るという繰り返しはリスクが大きい。そういう手立てしかなかったらとっくに死んじゃってたんじゃないかと思いますが、こだまさんには書くという手段があった。これが命綱であったと思います。書くことがあって本当によかった。
 たまたま「文章を書く」という共通点があるから言わせてもらうと、こだまさんは、小さい頃の日記を見てもわかる通り、誰に何と言われようと言われなかろうと書いているであろう人で、そこが信頼できるという気がする。
 そしてそれは(こんなこと言ったらいけませんが)、こだまさんが他人にどんなすばらしい人格的な態度を取っていても、最終的に「ほっといてくれ!」と思っているにちがいないことを証明するのではなかろうかと僕は思います。

 これだけテクノロジーが発達した今ですら、書くといえば一人で書くことを意味します。書いているそばから、こうした方がいいとか、そこは改行しろとか、つまんねーなとか、やめちまえとか、読みづらいとか言われたりするわけではない。それは書くことではない。
 まず書くのは自分であり、読むのも自分。書きつつ読んでいるのか、読みつつ書いているのかは判然としないけれども、とにかくそういう自分だけがいる行為であり、時間が、書くということなのです。
 それに、最初に書いたものから一語変えれば意味が変わり、一語足せば印象が変わる。それを逐一読んでいる。上書き保存の世界で無限に生まれうる幾多のバージョンの中で、いったいどれを人に見せるかということを考えて推敲したりするわけですが、そんなことをしていると、自分の意見なんてものが存在するのかすらあやしくなってきます。
 いい文章が書きたい。いい文章が読みたい。
 その思いは、自分の意見というものがあるとして、そいつを殺した上で、乗っ取りかねない。もしかしたら、「いい」ものが書けることに比べたら、意見なんて何ほどのことでもなくて、「いい」ものが書けたからそれを意見に採用しているだけかもしれないのに、書けたら書けたで証拠ができたとばかりに、自分の確固たる意見なのだと信じている。
 人が自分の意見を曲げないのは、その意見が美しいと信じているからかもしれません。小林秀雄が「美しい花がある。花の美しさというものはない」と言ったことを、まわりまわせばそういう意味にもなりそうだ。
 しかし、それに対して懐疑的になっちゃった時に、崩れ崩れてたどり着いてしまうのは、意見なんて「"どっちでもいい"し、"ムキになるようなことじゃない"し、"なんとかなる"し、"うーーーん"なのが世の中」であるという安定した視座ではないでしょうか。
 つまり、正解みたいなものはとっくのとうにないわけで、じゃあ、どう思おうと全員正解、クソみたいな人生を美しく書けて、美しく書けたことを自分の意見としてしまえるなら、それは美しい人生ということになるような気もする。
 そういえば、こんな文章を『十七八より』という小説で引用したのでした。

 人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである。
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス

  美しい生涯のようなものを知らず知らず目指してしまうところが人間と思いますが、では、なぜそんな曖昧でありもしないようなものを目指してしまうのか。
 引用をもう一つ。おそらく死ぬまで幾度も、ある契機ごとにお目にかかり、やはり最近も読むことになった吉田健一のこの文章。

 戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。
 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

  歴史の一部になると同時に振り返っていることだって、書くと同時に読んでいることと何が変わるっていうのか。「生活を美しくして、それに執着する」ことで戦争への意見を放棄するように、「文章を美しくして、それに執着する」ことで何かへの意見は放棄されます。美しさには、何の意見もありますまい。
 こう考えてくると、考えるというか二葉亭曰く牛の涎のように書いてくると、意見がなくただ在る、というのはどうも美しいらしく、人は大体そうなりたいと思うらしい、と思えてきます。子供や動物、無垢なもの。太宰やサリンジャー宮沢賢治が固執したもののかたち。でも、ここまで書いてきたように、そんなものはない(らしい)。
 こういうことを、こだまさんの文章が美しく思われることについての考えにふわっと代えさせていただきたいのですが、きっと、もっと、はっきり書いた方がいいのでしょう。あれだけ生きて、あれだけ書きながら、何の意見も言わなかったと。だから美しく生き、美しく書いたと言えるんだと。
 坂口安吾は、小林秀雄を批判してこう書きます。

 美しい「花」がある、「花」の美しさというものはない、などというモヤモヤしたものではない。死んだ人間が、そして歴史だけが退ッ引きならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは大嘘の骨張で、何をしでかすか分らない人間が、全心的に格闘し、踏み切る時に退ッ引きならぬぎりぎりの相を示す。それが作品活動として行われる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目にすぎないものだ。
 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもつていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。
(『教祖の文学』)

  「人間の詩」には、何の意見もないだろうと僕は思います。美しさだって、本当はない。でも、そう生きずにいられなかったこと、それを書かずにいられなかったということ、その「退ッ引きなら」なさを、人は「美しい」と呼びたがるとなると、人間っていいよなと思います。こだまさんの文章を読んで、みなそういう気分になるのでしょう。僕もなる。この文章に出てくる人たちの文章を読んだ時と同じような気分になるのです。
 それはむしろ「十四番目の月」を見るような気分に近いのですが、こんなことを書いておいて、それが「美しい」とは口が裂けても言えません。そんな時は、こういう啖呵がやたら身にしみるようです。
 やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!
 そんな感じで、こだまさんの最低限のご健勝をお祈りしております。かしこ。

 

クイック・ジャパン 121

クイック・ジャパン 121

 

 

十七八より

十七八より

 

 

生きて、語り伝える

生きて、語り伝える

 

 

 

ワインディング・ノート26(『IMONを創る』・いがらしみきお・(笑))

ワインディング・ノート

 今回から2,3回ほどの予定で、IMON3原則の最後"(笑)"について述べたい。
 これまでほかの2原則である"リアルタイム"、"マルチタスク"の意味と効用について述べたわけだが、たぶん「むずかしい」、「よくわかたない」、「夏バテになった」などの感想が多かったかもしれない。
「世の中、キミたちのわかることばかりではない」などと言うつもりはないが、物事は核心に迫れば迫るほどむずかしくなっていくもんです。
 松尾伴内は、あれほどわかりやすい人間のように見えても、ひと晩一緒に酒を飲んでみたらわからないよ。そのまんま東の嫁さんに惚れてたかもしれないじゃないか。そんなことないか。あはは。
 実際、核心に迫れば迫るほど世の中むずかしいことばかりである。しかし、核心の核心に迫ったとき、物事はこの上なく単純なものになるのではないか。まるで台風の目に入ったときのように。
 IMONでは、すべてのことの核心の核心は"(笑)"であると考える。核心の核心(以降これを"K点"と呼ぶ)が"(笑)"であるという例はいくらでもある。それこそ森羅万象すべてのK点は"(笑)"であると言ってもいいので、それらの森羅やら万象やらをいちいちとりあげることはできないが、例によってIMON流に森羅を独断し、万象を偏見してみたい。ただ、その前にやらねばいけないことがある。つまり、"(笑)"とは、はたしてどんなテイストか。
    
 さて、森羅万象、すべての事物の核心の核心である"K点"はどうして"(笑)"なのか。
 これについては、"すべて結果は同じ"なのだから、なんらかの方程式を持ち出すのが一番説明が通りやすいし、そのほうが"(笑)"でもあろうから、ちょっとやってみる。
 エーと、 K=Xa×(ω-ω)
 ナンダ、これ。わはははははは。
 いやー、1時間考えてコレなんだからやめたほうがいいな。あはは。
 つまり、K点というものは価値や意味をはぎ取った状態のことである。
 価値や意味に肉迫することが、核心に迫ることであるのならば、その核心の核心、つまりK点は、それらの価値と意味をもはぎ取った結果でなければならないだろう。
 なぜならば、それらの価値観と意味は我々が自ら創り出した勝手な決まり事でしかないからだ。たとえば、オカネのようにね。
 それら作り出された価値と意味が付随する限りK点とは言えない。K点とは、作り出されたあらゆる価値と意味を除いた地点である。K点にたどり着けば、我々にとっての森羅万象はただ単に森羅万象なだけで、なんら価値も意味もないという結論が出るのだ。これをもって、虚しいと感じるようではまだまだ人生修行が足りないよ。これをもって"(笑)"を感じなければまだまだ人生修行が足りないよ。これをもって"(笑)"を感じなければ、これから先の話は、マニュアルも読まないで、シミュレーションゲームをプレーしようとするのに等しい。
 森羅万象は森羅万象でしかない、我々はどこにもいない幽霊を見ているに等しい、ということを、我々は薄々感じていただろう。そうしたことをここで改めてあからさまにすることは、ワタシにとって、この上なく、まるで「人殺しはよくない」と言うのと同じくらいみっともないことである。しかしね、これは必ずや知っておかねばならないことなのだ。「人殺しはよくない」と言うのと同じように。
     
 価値と意味を教育する最大のシステムが学校というものであるが、そこでは、K点のことを決して教えてはくれない。なぜであろう。"我々と我々をとりまく世界は本質的には無意味だし、空虚である"などと言おうものなら、翌日から誰も学校なんかには出て来なくなるからだろうか。家に閉じこもって親指をしゃぶったまま「あばばばば」とか言ってるだけになるからだろうか。
 我々はすでにそこまでナイーブではない。たかが学校やIMONでそう言ったからといって信じるヤツはそう多くはないだろう。だからIMONではわざわざ言う。
 K点=(笑)
 これがたぶんこれからの時代のルールである。
    
     
 えー、そろそろ秋風が立ってきましたね。
 この連載も最近は季節の挨拶での始まりが多くなったが、この季節のご挨拶というものはなかなかいいものである。
 晴れの日は「いい天気ですねー」、雨が降ると「降ってますねー」、暑いと「暑いですねー」、寒いと「寒いですねー」、風が吹けば「風が強いねー」、雪が降ると「積もりますかねー」、台風になると「困りましたねー」などと言ったりする。当たり前のことをわざわざ言っているだけである。
 ここに当然、"情報"というものはない。みんな知ってることばかりだ。そりゃあそのあと「静岡のほうでは37度だったそうですよ」とか続いたりもするが、そのあと、各自の"お天気論"を戦わせたりしなければそれはそれで結構。なにがおもしろい、なにがおもしろくないという情報ばかりを、我々はシコタマ持たされているのが昨今である。
 つまり"評価"を下さねばならないことばかりだ。"とりあえず評価はおいといて"というものが昔から一番強かったが、今はそれだけが強い。たとえば、テレビの時代劇、ニュース番組、踊るポンポコリン、そして季節の挨拶。かつて"一億層評論家"とか言われた大衆は、"評価"ばっかりしてるのに倦み、飽きたということだろう。
 もしかして、季節の挨拶こそ次のトレンドかもしれない。"挨拶産業"とかが流行ったりして。あははは。そんなわけないか。
   
 えー、この"季節の挨拶"でもって、"(笑)"をもう少し具体的に立証できないだろうか。
 ワタシは中学生のころ、親しい間柄のヤツに、いきなり「今日はいい天気だねー」とか「寒くなったね」などという冗談を言っては笑いをとっていたことがある。それは中学生という"情報"を欲しがるさかりの年ごろの間で、季節の挨拶などすれば笑われるものだ。"情報"というのは、当然、"意味"ということである。"意味"のないものを"情報"とは言わないのである。
 中学生にとっては、季節の挨拶などなんの意味もないのだ。無意味なものは、結局のところ笑われる。
 郷ひろみ夫妻の新居の庭にニワトリ小屋があったらどうだろう。これは笑うに値するが、本質的には無意味ではない。我々の中での"郷ひろみ夫妻"というGーIMONにとっては、はなはだ異形なものであるぶんだけ無意味で笑いを誘うというのがその実体であるし、郷ひろみ夫妻にとっては"新鮮な卵を食べられる"という、あの人ならホントにやりかねないマジメな意味も相乗効果を高めているだけだ。こういうものは笑いというもののシステムであって、決して"(笑)"ではない。
 そうなると、"中学生と季節の挨拶"も、"笑い"のシステムであって、"(笑)"ではないということになる。そう、"(笑)"ではないということになる。そう、"(笑)"ではないのだ。
 "(笑)"とはOSであり、"笑い"はその上で動作するアプリケーションソフトである。
    
    
 あらゆる"意味"をはぎ取れば、残るのは"K点"である。つまり、そこが前回も言った、核心の核心こと"K点"である。
 ワタシはK点と具体的な"(笑)"をみなさんに見せてあげることはできない。ただ「森羅万象そのK点は"(笑)"だ」と言っているだけである。
 たとえ見せてあげることができたとしても、誰がそれをK点で"(笑)"なのだと証明できるだろう。そういう意味では非常に"科学的"な理論を展開しているのではないだろうか、ワタシって。物理や数学などの科学は、文学や哲学を、"ああして、こうして"という"現象学"でしかないという。しかし、物理学や数学などの科学もまた、現象学ではないのか。なぜならば彼らが説明し立証したものは、DNAにしろ量子論にしろ、やはり"現象"でしかないからだ。そして、現象を立証するのにも、現象を使うしかないのが科学である。
 我々は、科学に「なぜ」と問う。科学は「こうだから」と、"物質の性質"という現象をもって説明する。そして我々はまた「なぜ」と言うだろう。結末はどんどん伸びていくばかりだ。物理学が見つけた"最小物質"と言われるクォークにしろ、"それより小さいものは見つかっていない"という理由によってそうなっているだけである。物理学などの化学が到達した"最小物質"がクォークだというのならば、文学や哲学が到達した"本質的に森羅万象は森羅万象でしかない"というK点のほうが、まだ結末に近いのではないだろうか。だからこそ、文学と哲学の役目はとりあえず終わったのだろう。
    
 科学の理論や発見などというものを、我々は身近に感じることはない。それを信じ、身近に感じるのは、その理論や発見に基づいて作られた製品や技術を目にするときだけである。
 文学と哲学が発見した"森羅万象は森羅万象でしかない"というK点理論が、IMONによって身近になるかどうかはわからない。ましてや具体的な製品になるかどうかというと、これまたわからない。まさか「さぁさぁ、K点理論に基づいた精神安定剤だよ! 安いよ!」とか言って通信販売とかコミケで売ったりするわけにもいかないしね。いや、それもおもしろいかもしれない。
 それがコミケになるか通販になるか、パソコンショップの店頭販売になるのかはわからないが、いずれそうしてみたいとは思う。ただ、メディアについては確約できない。ビッブのOSになるのか、または音楽CDなのか、それこそパソコンソフトか、はたまたマンガかもしれないだろう。
    
 ワタシは前回"K点=(笑)"がこれからのルールになると言って結びとした。なぜそんなことを言われるのかわからない人がほとんどだろう。
 "K点=(笑)"というものをはじめて聞いた人でも、"価値観の多様化"という言葉は聞いたことがあるだろう。もし多様化したのならば、それまでの価値観というものはどういうものだったのか。人は「それはね、愛です」と言うだろうし、「反体制だ!」と言うかもしれないし、「銭ズラ」と言う人もいたし、今と比較してもそう谷綱価値観だったとは言えない。
 我々の価値観が多様化したのではなく、愛も反体制も銭も我々にとって、かつてのようなリアリティーがなくなっただけだろう。かくて、我々はそれらの価値観という"共通の挨拶"を持っていた。その共通の挨拶がリアリティーを失ったとき、我々はとりあえず"気持ちいい"という価値観にリアリティーを感じたのだ。
 そして、問題はその"気持ちいい"という、共通の挨拶を価値観にできなかった者がいることだ。そういった人々の前にこそ"人間関係"という問題が立ちはだかり、彼らを怯えさせ、ワタシはワタシで"季節の挨拶"を再評価したりすることになる。
    
    
 さてまだ"笑"である。安心してください。"(笑)"については今回でおしまいです。
 "愛"に疲れ、"反体制"に飽き、"ゼニ"をも手に入れた人々は"気持ちいい"という価値観を採用した。しかし、"気持ちいい"を採用できなかった人々もいる。それらの人々はどうしたろう。
 それらの人々の一部は原発に反対し、環境破壊に反対し、ゴルフ場に反対しはじめた。なぜならば"原発"も"環境破壊"も"ゴルフ場"も"気持ちいい"が源だからだ。
 つまり、価値観というのもやはり"二値"である。ONがあれば必ずOFFもある。
 原発と環境破壊とゴルフ場に示されるように、"気持ちいい"には"限界がない"という意味で限界がある。
 そして前回も言ったが"気持ちいい"というのはレッテルを貼り歩くという意味で横移動なのだ。これもまたひとつの限界を持つ。
 今や世界中どこに行っても日本人観光客だらけだというのがその象徴でもあるだろうし、最近はシャトルに乗ってとうとう宇宙まで行くという女性がいるらしいじゃないか。しかし、"気持ちいい"という価値観は圧倒的である。文句の言いようがない。
 ただ"欲がない"ということはできるだろう。報酬にカネだけを求めるのと同じぐらいに"欲がない"。
 そして、その"欲がない"という意味でも圧倒的に正しいのが"気持ちいい"というものだ。
   
 "気持ちいい"が圧倒的に正しいのならば、原発や環境破壊に心を痛めるのもやはり圧倒的に正しいだろう。こちらも文句の言いようがない。しかし、当然"どちらでもない"という人間がいる。そして、古今東西、"どちらでもない"人間が一番多いのが歴史的事実というものだ。アンケートをとって見ればわかるだろうが、"まぁまぁ"とか"普通"とか"うーーーーん"とかが統計上一番多い。"気持ちいい"も"環境破壊"も彼らにとってみれば"まぁまぁ"なのだ。でなけりゃ"うーーーん"。
 つまり基本的に"どっちでもいい"とか"ムキになるようなことじゃない"とか"なんとかなる"という人々である。そして、これも圧倒的に正しい。なぜならば、"どっちでもいい"し、"ムキになるようなことじゃない"し、"なんとかなる"し、"うーーーん"なのが世の中というものだからである。
「あー、じゃあ、正しいことばっかりじゃないか」と思ったアナタは間違ってはいない。しかし、クチに出して言うのならこう言ってほしい。「こういうことしかできない」と。しかも、我々が中身を知りたいと思って開けつづけた箱は結局カラッポだったのだ。これが"(笑)"でなくてなんだと言うのだろう。
 "(涙)"だの"(虚)"だのであってはいけないのだよ。

 

 

 

ワインディング・ノート25(『IMONを創る』・いがらしみきお・カント)

ワインディング・ノート
 それでは、ソフトの問題はどうなのか。
 かつて人間には"我々は何者なのか"というソフト上の問題があった。ゆえに、そこここで若者やオジサンが、"人生とは"とか"生きることとは"とか、"愛とは"についてコジツケた理屈を言っていたものである。
  今はどうなのか。そこここの若者とオジサンはどうしているのか。そこここの若者とオジサンは"人間関係"について語っているのではないか。みなさんだってご自分でそう思うでしょ? "今、自分にとって一番大きい問題は人間関係だ"って。オカネがないことですか? それはハードの問題なんです。オカネはハー ドなんです。だからハードでしか解決はつかない。そういうハードの問題を抜きにした場合はどんな問題が残りますか?
 ね? "人間関係"でしょ?
 え? 恋愛問題?
 それはね、恋愛というものが"人間関係"の極北なんです。その極北のドンヅマリにあるのが家族ってもんなんです。
 かつて"おつきあい"だったものが、今では"人間関係"と呼ばれる。それは単に言葉を変えただけではなく、まったく異なったものに変質したのではないか。
 我々は"人間関係"をまるでシゴトのように対処しはじめているはずである。ただ、この"シゴト"には給料が出ない。いきおい、我々のこのシゴトはネガティブなものになる。
 しかし、給料の代わりに"快感"をもたらすことはできるのではないか。マンガ家にとって、たとえ売れなくとも、その作品がいくばくかの快感をもたらしてくれるように。
  IMONは"人間関係"を作品という見地から捉えたい。
 確かに、今現在、我々のタッチしている人間関係は駄作ばかりであるかもしれない。
 それは我々にはまだ技術がないからでもあるだろう。
  たとえば"リアルタイム"、"マルチタスク"、"(笑)"という技術が。この3つの技術があれば、作品としての、傑作である人間関係が創れるかどうかはワタシにもわからない。今はまだ、"人間関係"がテーマであるとは誰も言わないし、そしてそれはまだ始まったばかりだ。どこで始まっているのか。
 "パソ通"でである。
 そして、パソ通こそが作品としての人間関係を創る実験の場にもなるはずであるし、事実それを無意識に実践しているのが、いわゆるパソコンオタクなのではないか。
 我々は、作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう。
 そのための"リアルタイム"であり、"マルチタスク"、そして"(笑)"なのだ。


 もう引用機械に成り果てましたが、僕はこの本を読んだ時に、初めてカントが腑に落ちたような気持ちがしたのでした。

あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい
(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)


 カントが言うのは「作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう」ということに他ならないのではないでしょうか。
 芸術家は、その作品を創ることを「目的」とし、創られた作品を「手段」として金銭や人脈を得たいわけではない。そんな者がいたとして、そんな者は芸術家と呼ばれはしない。
 人間関係も、そのように「目的」と捉えなければならないのです。作品を創らないなら。
  20年前にパソ通と呼ばれていたものは今インターネットと呼ばれ、リアルタイムのコミュニケーション・ツールなど言うまでもない。無目的な「つぶやき」や 「いいね」はそれ自体が目的化したことの証拠なのですが、同時に、人はすぐにそれを「手段」としてしまいます。我々は、やはりまだ「人間関係の芸術家」に はほど遠い。
 そこでカント本人を参照してみます。カントは偏屈な社交家として知られています。

 午前4時45分、従僕ランペは主人の部屋に堂々と入っていき、「教授様、時間でございますよ」と叫ぶのが日課であった。そして、時計が5時を打つまでに、カントは朝食の食卓に座った。彼はお茶を何杯か飲み、それから1日に一度だけのパイプを吸い、そして朝の講義の準備を始めた。
 カントは階下の講義室へ降りていき、7時から9時まで教え、それから書くために2階へ戻った。12時45分をきっかりに、カントは料理人に向かって「時計が3/4を打ったぞ」と叫ん だ。それは、昼食が出されなければならないことを意味していた。彼が「ひと口」と呼んだ酒を飲んだ後、午後1時ちょうどから昼食を開始した。カントにとっ て昼食は1日で唯一のまともな食事であったし、また社交的であったカントには昼食が会話をする理由でもあったため、彼は昼食をとても楽しみにしていた。そして、実際にカントは――私も彼は正しいと思うのだが――、会話が消化作用を助けると信じていた。彼はまた、チェスターフィールド卿の規則に従った。この 規則とは、昼食を共にする客人の数が美の女神の数[3人]より少なくてもならず、芸術[文芸]の女神の数[9人]より多くてもならず、通常4人から8人の間でなければならないというものでもあった。食事中、カントは決して哲学のことを語らず、また昼食に女性が招待されたことは一度もなかった。
(サイモン・クリッチリ 『哲学者たちの死に方』 杉本隆久/國領佳樹 訳)


  こうした習慣は、しばしば神経症的な強迫観念だと言われますが、なんということはない、これは、社交を、人間関係を、傑作にしようと希求する姿であるように、僕には映ります。毎日のルーティン・ワークを極限まで単純・効率化して、精神・肉体的ブレをなくし、自身の姿を傑作として結実させようとするイチローを思い起こさせます。

 熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならない。
  それはリアルタイムであり、マルチタスクでありました。何か問題が起こったとして、それこそ人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、朝がきたら起きて、 お腹がすいたらご飯を食べる。別の事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。リアルタイムを生きる限り、正しいも間違いもないのだから、悩んでいる意味はないのです。
 そして、女がいたら、その女は、女との人格の交流は、性行為のための「手段」となってしまいかねない。そんなことでは良くないのです。
 こうしたことの集団知の実践が「なんJ」に達したのだと思いましたが、詳しく言うのは避けて、続く。

 

 

プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)

プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)

 

 

哲学者たちの死に方

哲学者たちの死に方