ワインディング・ノート29(世阿弥/サザンオールスターズ/cero)

 で、実にそんな感じで作品に自己を投影しないようにやってきたのですが、この一年間に、自分をバリバリに投影して読んでしまい、この通りに生きようと思ってしまった本が二冊だけあります。
 それが、世阿弥の『風姿花伝』と、村上春樹の『職業としての小説家』です。
 前者は『十七八より』という小説家になる前に、後者は小説家になった後に読みました。

このころはまた、あまりの大事にて、稽古多からず。まづ声変りぬれば、第一の花失せたり。体も腰高になれば、 かかり失せて、過ぎしころの、声も盛りに、花やかに、やすかりし時分の移りにて、てだてはたと変わりぬれば、 気を失ふ。結句、見物衆もをかしげなる気色みえぬれば、はづかしさと申し、かれこれ、ここにて退屈するなり。 このころの稽古には、指をさして人に笑わるるとも、それをばかへりみず、内にて、声の届かんずる調子にて、宵 暁の声を使ひ、心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬよりほかは、稽古あるべからず。総じて、調子は声よりといへども、黄鐘・盤渉をもて用ふべし。調子にさのみにかかれば、身形にくせ出くるものなり。また、声も年よりて損ずる相なり。

 
 世阿弥は、「年来稽古」と題した各年齢で行うべき修行と心構えの記述から、秘伝書『風姿花伝』を始めます。
 その中で、「十七八より」(次の項が「二十四五より」なので、その間)の時期は「一期の境」と書かれている。それは、それまでの子供らしさで見栄えよくやれてきたことが、声変わりが始まり、背がひょろひょろ伸びることで、色を失うからだと世阿弥は言います。これまで無邪気にやっていたやり方が、通用しなくなるのです。そして、見る方がその散漫な様子に気づけば、やる方もその反応を察し、ますます恥ずかしくなり、たいていはみじめな気持ちで退屈していく。「子役は大成しない」とは、芸能界の最初期からある問題なのでしょう。
 でも、だから、子供から大人に移り変わるこの時期に笑われるのは当然だけれども、それを受け入れて「生涯にかけて、能を捨てぬ」所存でやるほかない。世阿弥が言うのは、そういうとてもシンプルなことです。
 けど、それだってなかなか難しい。

せつない胸に風が吹いてた
帰らぬ My Old Days
    
大人になるための裁きを受けて
羽ばたく友達が落とした夢の数を
独りきりで 数えた夜
名も無い歌にやわな生命を
奉げた Long Long Time
    
あこがれは無情な影だと言われ
去りゆく友達(とも)が残した旅の地図は
夏の空に 溶けていった
    
虹のように消えたストーリー
もう二度と戻れない時代を越えて
この胸に 浮かぶストーリー
幻と知りながら 熱い涙

 
 サザンオールスターズ『せつない胸に風が吹いてた』の歌詞は、桑田佳祐が大学時代に音楽の道をあきらめた友人たちを回想して書かれたものらしいのですが、この世の中で、抱いていた夢を叶えられない者が大勢を占めるのは、ご存知の通りです。
 死ぬまでやるという、かなりシンプルな方法があるとはいえ、世阿弥が言うような時期に現実を知り、あこがれは無情な影だという言葉を受け入れて、一人、また一人と夢から去っていく。結果、生涯にかけてそれを捨てぬ者だけが残される。
 このフォーク・ロックに分類されるような歌の心情は、死ぬまでやる者の「孤高」というよりは、太宰の言った「孤低」を想起させます。「大人になるための裁きを受けて」友が夢と引き替えに「羽ばたく」時、彼は地に残され、友を見上げているのですから。

 それでも「やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!」といがらしみきおの薫陶を受けていた僕は、世阿弥からそれよりは幾分か具体的な指示を受け、『十七八より』を書き始めました。ブログで文章を書き始めた頃からちょうど十七八年が経った頃であり、一期の境ここなり、とモチベーションを上げるには十分だったのです。
 その『十七八より』を書いている間は、ceroの「Yellow Megus」をよく聴いていました。聴いていたというよりか、ほとんど流しっぱなしにしていたといった方が正しいです。


cero / Yellow Magus【OFFICIAL MUSIC VIDEO】 - YouTube

サーファーたち見送る Ocean Liner to nowhere
打ち寄せる波は nova
波止場の女たちのカフスが風に揺れる
    
船出に沸き立つ群衆の声を掻き消し
祝砲をあげろ Harbor
その時人知れずに水夫が囁いた
    
「港を出たら針路を変え この船は砂漠の方角へ向かい
 期待と船体 打ち捨て 風が凪いだら海底に沈めろ」
    
Last Cruise, that day and that night...
    
誰もが忘れた船の名は Yellow Magus
東方で行方知れず
彼らに祈りの十字も切られないまま
覚えているのはデッキに鳥が降り立ち
行先を告げるように
五色の嘴 もたげてた あの姿
    
「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じに
 気付けよ 星が動けば これから起こることが分かるだろう」
    
Desert Song, Desert Song フィナーレを迎え入れてくれ
今夜中に砂漠へと渡り
See the Light, See the Light 砂の上を走る鬼火たち
光 宿し うごめいている
    
帆を下げ 陸に上がれ 帆を下げ 朝まで
帆を下げ 砂漠へ行け 帆を下げ 朝まで
    
…砂巻き上げて何かがやってくる
    
Desert Song, Desert Song フィナーレを迎え入れてくれ
今夜中に砂漠へと渡り
See the Light, See the Light 砂の上を走る鬼火たち
光 宿し うごめいている
    
帆を下げ 陸に上がれ 帆を下げ 海を捨てて
帆を下げ 砂漠へ行け 帆を下げ 朝まで
    
Last Cruise,that day and that night...

 
 書いている時はなぜそれを聴いているのか考えもしなかったのですが、こうして歌詞を写してみたら、結局自分も、無私などとは程遠い励ましをかぎつけ、因果の中で生きているのだと思わされることになりました。
 生涯をかけて捨てぬという覚悟、孤低の雰囲気、全世界を異郷と見なし続ける嗜み。それらを、都合のいい僕がこの歌詞と音楽に感じ取っていたことが手に取るようにわかる気がするのです。
 ちょっとこの歌について考えてみたいと思います。気になる歌詞があります。

「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じに
 気付けよ 星が動けば これから起こることが分かるだろう」


 「星が動けば これから起こることが分かるだろう」とは占星術ですし、「Yellow Megus」というタイトルからも「東方の三博士」が思い出されるところです。
 そういうことは別にしても、この歌詞をどう解釈するかは悩むところで、どう悩むかというのを、句読点でわかりやすくしてみます。


「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じに。
気付けよ、星が動けば これから起こることが分かるだろう。」


「終わりの来ない旅なら まぼろしに留まることと同じ、に気付けよ。
星が動けば これから起こることが分かるだろう。」

 つまり、「気付けよ」という言葉が、前後のどちらにかかるかという問題です。
 また、その句読点の付け方とも関わりますが、もう一点、「終わりの来ない旅」が何であるかもちょっと気になるところです。
 「終わりの来ない旅」が船旅のことであるなら、彼らは異郷である砂漠へ旅立ち、まぼろしに留まらないことになる。「気付けよ」とはまぼろしに留まることに対する注意を喚起する言葉になります。そして、そうならないために星を見ておくがいいだろう、というニュアンスを引きずって言葉が続く。この場合、句読点は②の方がふさわしいように思えます。「まぼろしに留まる」ことは悪であるという判断を下す歌詞です。
 「終わりの来ない旅」がもっと広い意味での旅のことであるなら、船を捨ててフィナーレを迎え砂漠に向かおうとも、彼らはまだ旅の中におり、まぼろしに留まることになる。そして、そうだとすれば、注意を喚起する意味はないので、句読点は①の方がふさわしいように思えます。その時、「気付けよ」とは、星の動きを見逃すなという意味です。東方の三博士が占星術によってイエスの誕生に駆けつけたように、星を見ていればこれから起こることがわかるから見逃すな、と。この場合、「まぼろしに留まる」ことに対しては善悪の判断は下されません。
 善悪の判断をしないということは、すべてをよしとするということです。
 『Yellow Megus』=「黄色い三博士」にある黄色が黄色人種をさすのであれば、東方の三博士は、東洋人を含意することになります。東洋思想の、よく言われる一つの大きな特徴として、もちろん厳密に全てを括れるわけではありませんが、善悪二元の判断をしないことが挙げられます。それも、善悪を否定するのではなく、それを含みながら頓着しないというのがおもしろいところです。サリンジャーもそれに惹かれた。
 先ほど長々、あまり重要そうでない歌詞の分析を試みていて、自分でもどうしたものか、意味があるのか、と思っていましたが、この歌詞が、そういう風に書かれているのだとここに来て思えてきました。
 つまり、この歌詞は、①でありながら②であり、②でありながら①であり、という矛盾を孕んだまま、「終わりの来ない旅」や「まぼろし」が、その意味や価値を固定されずに浮遊しているように書かれているのです。
(つづく)

 

 

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ワインディング・ノート28(村上春樹/『職業としての小説家』/フィリップ・ロス)

 僕は、村上春樹の熱心な読者ではありません、と書いたところで、そのくせほとんどの本を読んだことがあるし、たくさんの啓示を当たり前のように受けてきていることに気づきました。
 それでも、 熱心な読者ではないと何の逡巡もなく余計なことに口をすべらせてしまうのは、村上春樹を語るときに頭の片隅に現れる「熱心な読者」たちの存在のせいな のですが、その人たちは巷で「ハルキスト」と呼ばれたりして、ノーベル賞の時期になるとカフェに集まったりして、受賞せずの報を受けると「あーっ」とテー ブルに突っ伏してしまったりしているのですが、あれを見ると、僕も人間なので、これは何か良からぬことが起こっているんじゃないかと思ってしまい、自分はあんなスタンスで村上春樹を読んでいるんじゃないんだという宛先のない言い訳が胸の内にたまっていくよね、と大体そのようなことが『バーナード嬢曰く。』に書いてあり、その『バーナード嬢曰く。』まで含めて、これは何か良からぬことが起こっているんじゃないかと思ってしまうのですが、この思いこそが「良からぬこと」へ招待されるためのパーティー券みたいなもので、みんなこれを内ポケットにしまいこんで行くか行くまいかウロウロし、あやしい目つきになっている人も結構いるという状況みたいです。
 その「良からぬこと」が、作家をとりまく他愛と中身のない議論のことではなく、作家や小説のことに取って代わってしまっているような危うい言説を、僕は聞いたことがありますし、見たこともあります。
 そんなとんでもないバイアスをかけて読まれてしまう小説家になるまでの変遷と心意気と実践について、とても真摯に書かれているのが『職業としての小説家』という本です。
 個人的なことを言わせてもらえば――本はいつも個人的なもののはずですが――僕はこの本を、小説家になってから読みました。
  僕は今年、『十七八より』という小説で村上春樹と同じ群像新人賞をもらって、自分のことを小説家と呼んでもバチは当たらないぐらいな感じになったのですが、前回も書いたように、そうなったからといって特筆するような感慨もなく、なんなら受賞を知らせるお電話も、さんざんこの日のこの時間だぞと知らされて いるにもかかわらず、マジで失礼なことにその日は出ることなく、やや(と信じたい)顰蹙を買ったぐらいでした。
 何が言いたいかというと、我が身に起こる出来事というのは、我が身にとってはどこまでいっても出来事でしかないのであって、自分が揺るがされる度合いとなる「震度」というのを持たないような気がするという感じがどうもして、小説の新人賞もそうだったということです。
 こういう考えがどこで養われてしまったかというと、もちろん元々の性格ということもあるのかも知れませんが、多くは、読書の中で培われたものであろうと推察できます。
  少なくない本を読む中で、少なくない書き手が無私の心を語っていました。僕はそういう考えがけっこう性に合う気がしました。これまでワインディング・ノー トで書いた以外にわかりやすい例で言えば、老荘の「熱心な読者」だった時期がありますし、引き写しノートのかなり初期の方に、こんな文があるのを容易く見つけられます。

    ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう。

 フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』の一節です。確かこれは、もちろんそれだけではないという留保付きでいうなら、セックス・セックス・セックスの本でした。
 さて、これに類する数え切れない教訓によって僕は、読書が歓びをもたらした場合、それは自分が揺さぶられるのではなく、例えば「文学」が揺さぶられているのだと思うようになり、それを歓びとして読むようになりました。
  自分の感動なんかより、何千年の歴史を持ち、数え切れない先人達が積み上げてきた「文学」の変動を感じる方が、ずっと大事なことだと思うようになったのでした。(「文学」という言葉をそんなに無邪気に信頼しているわけではありませんが、そこにぴったり当てはまる適切な言葉が見つからないのです)
  こういうことばかり考えていると、そのうちそういう考えを全てに適用するようになり、せっかく知り合った人たちとの連絡は別に絶って大丈夫だし、群像新人文学賞受賞を知らせる電話は別にその日のうちに出なくても平気、と考えるようになります。
 そんなことをして友達がいなくなったり信頼を失ったりしても、さびしがったり困ったりするのは二の次である自分であって、いちばん大事な「文学」は困らないからです。
 こうなるとけっこう人としては最悪なのですが、この話はもういいでしょう。ともかく、自分が割にどうでもよくなるので、本にあんまり自分を投影しなくなるということです。正確に言うと、投影しかけても投影してないように考えを持っていってホッとする有様、という状態に近いのですが、あんまり上手く言えません。
 というわけで『職業としての小説家』の感想がつづきます。

 

 

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バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)

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十七八より

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