ワインディング・ノート28(村上春樹/『職業としての小説家』/フィリップ・ロス)

 僕は、村上春樹の熱心な読者ではありません、と書いたところで、そのくせほとんどの本を読んだことがあるし、たくさんの啓示を当たり前のように受けてきていることに気づきました。
 それでも、 熱心な読者ではないと何の逡巡もなく余計なことに口をすべらせてしまうのは、村上春樹を語るときに頭の片隅に現れる「熱心な読者」たちの存在のせいな のですが、その人たちは巷で「ハルキスト」と呼ばれたりして、ノーベル賞の時期になるとカフェに集まったりして、受賞せずの報を受けると「あーっ」とテー ブルに突っ伏してしまったりしているのですが、あれを見ると、僕も人間なので、これは何か良からぬことが起こっているんじゃないかと思ってしまい、自分はあんなスタンスで村上春樹を読んでいるんじゃないんだという宛先のない言い訳が胸の内にたまっていくよね、と大体そのようなことが『バーナード嬢曰く。』に書いてあり、その『バーナード嬢曰く。』まで含めて、これは何か良からぬことが起こっているんじゃないかと思ってしまうのですが、この思いこそが「良からぬこと」へ招待されるためのパーティー券みたいなもので、みんなこれを内ポケットにしまいこんで行くか行くまいかウロウロし、あやしい目つきになっている人も結構いるという状況みたいです。
 その「良からぬこと」が、作家をとりまく他愛と中身のない議論のことではなく、作家や小説のことに取って代わってしまっているような危うい言説を、僕は聞いたことがありますし、見たこともあります。
 そんなとんでもないバイアスをかけて読まれてしまう小説家になるまでの変遷と心意気と実践について、とても真摯に書かれているのが『職業としての小説家』という本です。
 個人的なことを言わせてもらえば――本はいつも個人的なもののはずですが――僕はこの本を、小説家になってから読みました。
  僕は今年、『十七八より』という小説で村上春樹と同じ群像新人賞をもらって、自分のことを小説家と呼んでもバチは当たらないぐらいな感じになったのですが、前回も書いたように、そうなったからといって特筆するような感慨もなく、なんなら受賞を知らせるお電話も、さんざんこの日のこの時間だぞと知らされて いるにもかかわらず、マジで失礼なことにその日は出ることなく、やや(と信じたい)顰蹙を買ったぐらいでした。
 何が言いたいかというと、我が身に起こる出来事というのは、我が身にとってはどこまでいっても出来事でしかないのであって、自分が揺るがされる度合いとなる「震度」というのを持たないような気がするという感じがどうもして、小説の新人賞もそうだったということです。
 こういう考えがどこで養われてしまったかというと、もちろん元々の性格ということもあるのかも知れませんが、多くは、読書の中で培われたものであろうと推察できます。
  少なくない本を読む中で、少なくない書き手が無私の心を語っていました。僕はそういう考えがけっこう性に合う気がしました。これまでワインディング・ノー トで書いた以外にわかりやすい例で言えば、老荘の「熱心な読者」だった時期がありますし、引き写しノートのかなり初期の方に、こんな文があるのを容易く見つけられます。

    ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう。

 フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』の一節です。確かこれは、もちろんそれだけではないという留保付きでいうなら、セックス・セックス・セックスの本でした。
 さて、これに類する数え切れない教訓によって僕は、読書が歓びをもたらした場合、それは自分が揺さぶられるのではなく、例えば「文学」が揺さぶられているのだと思うようになり、それを歓びとして読むようになりました。
  自分の感動なんかより、何千年の歴史を持ち、数え切れない先人達が積み上げてきた「文学」の変動を感じる方が、ずっと大事なことだと思うようになったのでした。(「文学」という言葉をそんなに無邪気に信頼しているわけではありませんが、そこにぴったり当てはまる適切な言葉が見つからないのです)
  こういうことばかり考えていると、そのうちそういう考えを全てに適用するようになり、せっかく知り合った人たちとの連絡は別に絶って大丈夫だし、群像新人文学賞受賞を知らせる電話は別にその日のうちに出なくても平気、と考えるようになります。
 そんなことをして友達がいなくなったり信頼を失ったりしても、さびしがったり困ったりするのは二の次である自分であって、いちばん大事な「文学」は困らないからです。
 こうなるとけっこう人としては最悪なのですが、この話はもういいでしょう。ともかく、自分が割にどうでもよくなるので、本にあんまり自分を投影しなくなるということです。正確に言うと、投影しかけても投影してないように考えを持っていってホッとする有様、という状態に近いのですが、あんまり上手く言えません。
 というわけで『職業としての小説家』の感想がつづきます。

 

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

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バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)

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十七八より

十七八より

 

 

 

ダイング・アニマル

ダイング・アニマル

 

 

ワインディング・ノート27(こだまさん・吉田健一・坂口安吾)

 黙っている間に集団的自衛権に関する閣議決定がなされ、「カツマタくん」はクソをひり出すように続き、僕は群像新人文学賞をもらい、夏の甲子園が始まり、こだまさんの文章が活字になり、甲子園が終わり、堀北真希が結婚しました。
 それなりに忙しくなる、人に会う機会ができる、お金がもらえるなど、状況こそ多少変わりましたが、心持ちは何も変わらないようです。最終候補に残り、取れるか取れないかの電話待ちみたいな時期もあるにはあったし、そういう時期やその後のあれやこれやについて、だいぶ前にはちょくちょく考えていたような気もするのですが、ただ一切は淡々と過ぎゆくばかり、時々、誰にともなくうるせーバカと思うぐらいでした。
 そういう「世に出る」ような時が来たらどうなるかと、昔々に青臭く考えていたこと。それは例えば松任谷由実が、恋が成就してしまう直前の幸福な気分として「つぎの夜から欠ける満月より 十四番目の月がいちばん好き」と書いた歌詞に表れるような、大きな期待と不安の入り交じるときめきの予感でありました。
 ただ、実際はなんということもない。もちろん、嬉しくなかったわけはないけれど、そもそも群像新人文学賞が満月かというと、そんなことでもありません。「十四番目の月がいちばん好き」だという女の子だって、それが人生に一度の恋であるはずがなく、そもそも衛星としての月が何度も満ち欠けして見えるように「十四番目の月」にあたる気分はネクストの恋ごとに何度だって訪れるんだろうから、そのたびにときめいておればいいかとも思いますが、そんな気分でいられるような、ある種の「おめでたさ」みたいなものがあるなら、何かを仕遂げることは一挙に難しくなるだろうと感じています。
 なぜといって、およそ芸術という括りで呼ばれるような世界で何かを仕遂げるとは、これまでだらだら書いてきたように、この世に実現するはずのないものの姿を、追い求め続けてのたれ死ぬようなことだからです。別に他のことでも長いことやっていればそういうことになるでしょうが、ぜんぜん仕遂げることなんかにはならない。どうせのたれ死ぬのだから。
 そう考えると、目の届く範囲で今一番わかりやすくのたれ死にそうなこだまさんが注目されているのはある意味当然の結果であるのかもしれません。

    いかなる問題が起ころうとも、"しない"ことによって解決しようとしてはいけない。常に"する"ことで解決するしかないのだ。やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!

  こう書いたのは1990年のいがらしみきおですが、こだまさんの生き方に憧れという名の共感を持ったりする人が多いのは、この文が伝えるところと僕は考えております。
 "する"というのは、その時々で(なんでそんなことになるのかは置いておいて)出会い系で男とヤることであったりするわけです。
 同じくいがらしみきおは『Sink』の中で、「バランスは必ず崩れる、でも崩れてしまった時が一番安定している」とも書いているのですが、こだまさんもまた"する"ことで、現在の歪なバランスを崩し、崩しきったところでの安定に解決を見ようとしたのかもしれませんし、助かったということもあるかもしれないでしょう。
 ただ、そんなことをしていたらやっぱり辛い。なぜといって、最高にバランスが崩れて完全に安定した状態が「死」というものであるのは明白で、安定を目指す衝動が向かう墓場は決まっているからです。
 生きるためには"する"しかないのですけれど、バランスを崩して新たな安定を得るという繰り返しはリスクが大きい。そういう手立てしかなかったらとっくに死んじゃってたんじゃないかと思いますが、こだまさんには書くという手段があった。これが命綱であったと思います。書くことがあって本当によかった。
 たまたま「文章を書く」という共通点があるから言わせてもらうと、こだまさんは、小さい頃の日記を見てもわかる通り、誰に何と言われようと言われなかろうと書いているであろう人で、そこが信頼できるという気がする。
 そしてそれは(こんなこと言ったらいけませんが)、こだまさんが他人にどんなすばらしい人格的な態度を取っていても、最終的に「ほっといてくれ!」と思っているにちがいないことを証明するのではなかろうかと僕は思います。

 これだけテクノロジーが発達した今ですら、書くといえば一人で書くことを意味します。書いているそばから、こうした方がいいとか、そこは改行しろとか、つまんねーなとか、やめちまえとか、読みづらいとか言われたりするわけではない。それは書くことではない。
 まず書くのは自分であり、読むのも自分。書きつつ読んでいるのか、読みつつ書いているのかは判然としないけれども、とにかくそういう自分だけがいる行為であり、時間が、書くということなのです。
 それに、最初に書いたものから一語変えれば意味が変わり、一語足せば印象が変わる。それを逐一読んでいる。上書き保存の世界で無限に生まれうる幾多のバージョンの中で、いったいどれを人に見せるかということを考えて推敲したりするわけですが、そんなことをしていると、自分の意見なんてものが存在するのかすらあやしくなってきます。
 いい文章が書きたい。いい文章が読みたい。
 その思いは、自分の意見というものがあるとして、そいつを殺した上で、乗っ取りかねない。もしかしたら、「いい」ものが書けることに比べたら、意見なんて何ほどのことでもなくて、「いい」ものが書けたからそれを意見に採用しているだけかもしれないのに、書けたら書けたで証拠ができたとばかりに、自分の確固たる意見なのだと信じている。
 人が自分の意見を曲げないのは、その意見が美しいと信じているからかもしれません。小林秀雄が「美しい花がある。花の美しさというものはない」と言ったことを、まわりまわせばそういう意味にもなりそうだ。
 しかし、それに対して懐疑的になっちゃった時に、崩れ崩れてたどり着いてしまうのは、意見なんて「"どっちでもいい"し、"ムキになるようなことじゃない"し、"なんとかなる"し、"うーーーん"なのが世の中」であるという安定した視座ではないでしょうか。
 つまり、正解みたいなものはとっくのとうにないわけで、じゃあ、どう思おうと全員正解、クソみたいな人生を美しく書けて、美しく書けたことを自分の意見としてしまえるなら、それは美しい人生ということになるような気もする。
 そういえば、こんな文章を『十七八より』という小説で引用したのでした。

 人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである。
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス

  美しい生涯のようなものを知らず知らず目指してしまうところが人間と思いますが、では、なぜそんな曖昧でありもしないようなものを目指してしまうのか。
 引用をもう一つ。おそらく死ぬまで幾度も、ある契機ごとにお目にかかり、やはり最近も読むことになった吉田健一のこの文章。

 戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。
 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

  歴史の一部になると同時に振り返っていることだって、書くと同時に読んでいることと何が変わるっていうのか。「生活を美しくして、それに執着する」ことで戦争への意見を放棄するように、「文章を美しくして、それに執着する」ことで何かへの意見は放棄されます。美しさには、何の意見もありますまい。
 こう考えてくると、考えるというか二葉亭曰く牛の涎のように書いてくると、意見がなくただ在る、というのはどうも美しいらしく、人は大体そうなりたいと思うらしい、と思えてきます。子供や動物、無垢なもの。太宰やサリンジャー宮沢賢治固執したもののかたち。でも、ここまで書いてきたように、そんなものはない(らしい)。
 こういうことを、こだまさんの文章が美しく思われることについての考えにふわっと代えさせていただきたいのですが、きっと、もっと、はっきり書いた方がいいのでしょう。あれだけ生きて、あれだけ書きながら、何の意見も言わなかったと。だから美しく生き、美しく書いたと言えるんだと。
 坂口安吾は、小林秀雄を批判してこう書きます。

 美しい「花」がある、「花」の美しさというものはない、などというモヤモヤしたものではない。死んだ人間が、そして歴史だけが退ッ引きならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは大嘘の骨張で、何をしでかすか分らない人間が、全心的に格闘し、踏み切る時に退ッ引きならぬぎりぎりの相を示す。それが作品活動として行われる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目にすぎないものだ。
 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもつていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。
(『教祖の文学』)

  「人間の詩」には、何の意見もないだろうと僕は思います。美しさだって、本当はない。でも、そう生きずにいられなかったこと、それを書かずにいられなかったということ、その「退ッ引きなら」なさを、人は「美しい」と呼びたがるとなると、人間っていいよなと思います。こだまさんの文章を読んで、みなそういう気分になるのでしょう。僕もなる。この文章に出てくる人たちの文章を読んだ時と同じような気分になるのです。
 それはむしろ「十四番目の月」を見るような気分に近いのですが、こんなことを書いておいて、それが「美しい」とは口が裂けても言えません。そんな時は、こういう啖呵がやたら身にしみるようです。
 やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!
 そんな感じで、こだまさんの最低限のご健勝をお祈りしております。かしこ。

 

 

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

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十七八より

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生きて、語り伝える

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堕落論・日本文化私観 他22篇 (岩波文庫)

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